は必ず盃一杯分ばかり残していた。

          ◇

 翁から直筆の短冊を貰った人は随分多いであろうと思う。筆者も七八枚持っていたが、人々に所望されて現在巻頭の二枚しか残っていない。[#巻頭に梅津只圓翁の写真と合わせて3枚の写真あり]
 筆跡は巻頭に掲ぐる通り、二川様に、お家様、定家様、唐様等を加味したらしい雅順なものである。舞台上の翁の雄渾豪壮な風格はミジンも認められないが、恐らく翁の本性をあらわしたものであろう。歌意は歌詞と共に、能楽の気品情操を一歩も出でない古風なもので月並と云えば、それまでであるが、翁はそれを短冊に自筆して人に与えるのがなかなかの楽みであったらしい。気が向くと弟子の帰りを待たしておいて悠々と墨を磨りながら一二枚宛書いて与えた。
 因《ちなみ》に翁の和歌は誰かに師事したものには相違なかったが、その師が誰であったかは遺憾ながら詳《つまびらか》でない。宇佐元緒、大熊浅次郎両氏の談によると有名な大隈言道氏は、翁の存命中、翁の住家に近い薬院今泉に住んでいたから、翁も師事していたかも知れない。その後、言道氏の旧宅に小金丸金生氏が住んでいて、この人に師事していたことはたしかであったという。なおこの他に末永茂世氏が春吉に住んでいたというが、この人に学んだかどうかは詳でない。
 福岡の人林大寿氏は奇特の人で、只圓翁の自筆の短冊数十葉を蒐集し、同翁の門下生に分与しようとされたものが現在故あって一纏めにして古賀得四郎氏の手許に預けられている。古賀氏の尽力で、表装されて只圓翁肉筆の歌集として世に残る筈である。翁の歌風を知るには誠に便宜と思うからその和歌を左に掲げておく。
[#ここから2字下げ]
    行路荻               (八十七歳時代)
夕附日荻のはこしにかたむきて
      ふく風さむしのべのかよひ路
    帰雁
桜さくおぼろ月夜にかりがねの
      かへるとこよやいかにのとけき
    河暮春               (八十八歳時代)
ちる花もはるもながれてゆく河に
      なにをかへるのひとりなくらん
    河暮春
大井河花のわかれをしとふまに
      はるは流れて暮にけるかな
    雉
春雨のふりてはれぬるやま畑の
      すゝしろかくれ雉子なくなり
    寒松風
枯はてしこすへはしらぬ夜あらしを
  
前へ 次へ
全71ページ中58ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
杉山 萠円 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング