壺の上に土を被《かぶ》せて、銀杏の葉を撒き散らして、あとをわからないようにしておきました。
十八 氷と鉄
その日も無事に過ぎて翌る朝になりますと、紅矢の家から又もや急な使いが来て、青眼先生に大急ぎで来てくれとの事でした。先生は取るものも取りあえず直ぐに駈け付けて見ますと、昨夜《ゆうべ》夜通し寝ず番をした紅矢のお父さんと黒牛とが、玄関に出迎えていまして、両方から手を引いて、紅矢の寝床へ案内をしました。そうしてそこの椅子に腰かけさせまして、暫く黙って紅矢の様子を見ていてくれと頼みました。青眼先生は愈々《いよいよ》不審に思って、一体これはどうした事と怪しみながら、頼まれた通りにじっと紅矢の寝顔を見つめていますと、やがて紅矢は頬の色を真青にして、火のように血走った両方の眼をパッチリと開きました。そうして天井を睨《にら》みながら身もだえをして、
「昨夜《ゆうべ》来た、悪魔が来た。美紅姫にそっくりの悪魔が男子の着物……紫の髪毛《かみのけ》……銀の剣《つるぎ》……金剛石《ダイヤモンド》の鈕《ぼたん》……窓から白い手を出して……手には美しい宝石の紐《ひも》を持って……その紐を投げ付けた。
お父さんも眠っていた。黒牛も眠っていた。
私だけ知っている。悪魔だ。悪魔だ。この間の悪魔だ。おのれ悪魔。もう一度来い。今後は逃《の》がさぬぞ。この繃帯を解いてくれ。この蒲団《ふとん》を取ってくれ。早く。早く」
と叫びましたが、やがて又疲れたと見えてグタリと横になって、ウトウトと眠り初めました。
この様子を見た青眼先生は又もや腰を抜かさんばかりに驚いたらしく思わず――
「ム――ム。悪魔……」
と叫びましたが、有り合う椅子にドッカと腰を下して、眼を閉じ口を一文字に結んでさも口惜《くや》しそうに――
「宝蛇だ。宝蛇だ。扨《さて》は自分の思い通りであったか」
と独り言を云いました。
傍に居た人々は両親を初め皆、いよいよ不思議な青眼先生の言葉や行いに驚いて、一体これはどうした訳であろうと怪しみました。そうして黙って考え込んでいる青眼先生の、物凄い顔付きを穴の明く程見つめていました。すると青眼先生は間もなく考《かんがえ》が付いたと見えまして、眼をパッと開いて――
「よし。覚悟した。私はどうしてもその悪魔の正体を見届けずにはおかぬ」
と申しました。
それから青眼先生は紅木大臣夫婦に、今夜からは自分一人で夜伽《よとぎ》をして、悪魔の正体を見届けたいから、何卒《どうぞ》自分に任せて下さるようにと熱心に願いました。両親はこの頼もしい青眼先生の言葉を聞きますと、何で否《いな》やを申しましょう。直ぐに承知を致しまして、青眼先生を只一人この室《へや》に残して引き取りましたが、なお念のため家の周囲《まわり》には、力の強い勇気のある家来を大勢配って、油断なく見張らせるようにしました。
青眼先生は、室《へや》の中に一人も居なくなりますと、やおら立ち上ってそこらを見まわしましたが、この室は扉を締めておきさえすれば、あとは只窓一ツしか無く、他に出入りする処はありませんから、悪魔は屹度あの窓から這入って来たに違いないと思いました。青眼先生はこれを見定めて、なおもその窓の外をよく見ようと思って、不図窓の縁に手をかけますと、その隅の処に妙なものを見つけました。それは三粒の美しい紅玉《ルビー》でした。
青眼先生はこの世の中にありとあらゆるもので知らぬものは無く、殊に宝石の事は詳しく知っていましたから、この三粒の紅玉《ルビー》を一目見ると、直ぐに、これは世にも稀《まれ》な上等飛び切りの紅玉《ルビー》で、当り前の者が持っているものではないと思いましたが、扨《さて》誰が何のためにこんな処に置いているかという事は全くわかりませんでした。只《ただ》もしかすると、これは悪魔が何かのためにした悪戯《いたずら》かも知れぬ。それならばなるべくいじらぬ方がよいと思って、そっくりそのままにしておきました。
その中《うち》に夜はだんだん更《ふ》けて来ましたから、青眼先生は眠られぬ薬を飲みまして、只一人紅矢の枕元に椅子を引き寄せて座りました。そうしてその懐中《ふところ》には、悪魔を見たらば直ぐにも注ぎかけるために、別に一ツの薬瓶を用意して、その夜《よ》夜通しまんじりとも為《せ》ずに過ごしました。その薬は一寸でも身体《からだ》にかかると、直ぐに身体《からだ》中の血が氷になってしまうという恐ろしい毒薬でした。けれどもその夜は何事も無くて済みました。その次の夜《よ》も次の夜《よ》も無事に明けました。いよいよ明日《あす》は宮中でお目見得の式があるという晩になると、その間|家《うち》中は濃紅姫の身支度で大変な騒ぎで御座いましたが、すっかり支度が済みますと、姫はこの家の一番の奥の石の神様を祭ってある大広間の真中に、寝台《ねだい》を置いてその上に寝かされて、その周囲《まわり》には四人の家来が代り番に寝ずの番をしておりました。これは姫の身体《からだ》に万一の事が無い用心です。
両親はこの様子を見て安心をして自分の室《へや》に引き取りました。美紅姫もその枕元に来て――
「お姉様、お寝《やす》み遊ばしまし」
と云って、あとを見返り見返り出て行きましたが、その顔は云うに云われぬ悲しさに満ち満ちていました。これを見ると濃紅姫は――
「ああ、美紅姫と一所にこの家《うち》で眠《ね》るのもこれがおしまいになるかもしれぬ。美紅はそれで泣いているのであろう。何という悲しい事であろう」
と思いながら美事な香木で作った格天井《ごうてんじょう》を見ていましたが、熱い熱い涙が自《おの》ずと眼の中に溢れて、左右にわかれて流れ落ちました。その時にこの広い宮中はひっそりと静まり返って、針の落ちる音までも聞こえる位でした。
この時青眼先生は只一人紅矢の枕元に座って、毒薬の瓶《びん》を懐《ふところ》に入れたまま、最早《もう》悪魔が来るか来るかと待っていました。けれども夜中過ぎまでは何事も無く、只紅矢の苦しい呼吸の音が、夜の更けると一所に静まって行くばかりでした。ところが真夜中が過ぎて、やがて夜が明けようかと思わるる頃になりますと、庭のどこからか歌を唄う女の美しい声が聞こえて来ました。
「紅矢は顔を見た。
悪魔の顔を見た。
悪魔の顔を見たものは
殺されるのが当り前。
妾《あたし》は悪魔。妾は悪魔。
屹度紅矢を殺すぞよ」
その声は、青眼先生がどこかで一度聞いた事のある声のように思いましたが、この時はどうしても思い出せませんでした。この声を聞き付けますと、紅矢は忽ち眼を見開き、頭を擡《もた》げて――
「あの声。あの声。悪魔のこえ。妹の美紅の声」
と叫びました。
青眼先生は直ぐに窓から飛び出して、声のする方に駈け出しました。そうして片手を罎《びん》の栓へかけて、出会い頭《がしら》に毒薬をふりかけてくれようと、血眼《ちまなこ》で駈けまわりましたが、不思議や悪魔はどこへ行ったか影も形も無く、只|霜風《しもかぜ》が身を切るように冷たくて、大空には星の光りが降るように輝いているばかりでした。
青眼先生は何だか狐に抓《つま》まれたような気がして、呆然《ぼんやり》と立っていました。けれどもその中《うち》に又不図これは悪魔の計略《はかりごと》だなと気が付いて、急いで紅矢の室《へや》に帰って見ますと、こは如何に。紅矢は何を為《し》たのか、布団の中から身体《からだ》を半分脱け出しまして、呼吸《いき》をぜいぜい切らして、眼を怒らして、歯を喰い締めて、窓の外を睨んでいます。そうして左の手には何か固いものを一ツ、しっかりと握り込んでいる様子です。青眼先生はハッとしまして、扨は悪魔は自分を誘い出しておいて、又もや紅矢を苦しめに来たのだなと気が付いて、急いで紅矢の傍へ寄って――
「紅矢様。若様。どう遊ばしたので御座います。悪魔がここへ参りましたか。そうしてどちらへ逃げて行きましたか」
と尋ねました。けれども紅矢はそれには返事を為《せ》ずに――
「悪魔。悪魔|奴《め》。美紅の悪魔奴、取り逃がしたか」
と叫びました。そうして又がっくりとうしろに倒れますと、どうでしょう。この間から窓の処に置いてある紅玉《ルビー》と同じ位に美しい、同じ位の大きさの紅玉《ルビー》が一掴み程、バラバラと寝台《ねだい》から転がり落ちて、床の上で血のような光りを放って散らばっているではありませぬか。この様子で見るとこの紅玉《ルビー》は、紅矢の妹共が忘れて行ったものでも何でもなく、全く悪魔が何かのために置いて行ったものに違いないと思われました。青眼先生は一寸の猶予《ゆうよ》も無く両親を呼んで紅矢の番を為《さ》せました。そうして自分は有り合う提灯に火を灯《とぼ》して、窓の外へ出まして、そこらをよく検《あらた》めて見ますと、石畳のあすこここに、一粒か二粒|宛《ずつ》紅玉《ルビー》が落ちています。青眼先生は占めたと思いまして、なおも提灯を地面にさし付けて、紅玉《ルビー》を探しながら、だんだんと跡を付けて行きますと、その跡は一間《ひとま》置いて隣りの室《へや》の窓の下に来て止まっています。そうしてその窓掛けの間からは薄い黄色い光りが洩れていました。
青眼先生はこの室《へや》が美紅の室《へや》という事をかねてから聞いておりました。けれども中を覗いた事は一度もありませんでした。ですから直ぐに提灯の火を吹き消して、その窓からそっと中を覗いて見ました。
窓の中の有様を一眼見るや否や青眼先生は思わず棒のように立《た》ち竦《すく》んでしまいました。窓の直ぐ傍の寝台《ねだい》の上には一人の美しい少女が寝ております。その顔。その姿。それから寝台《ねだい》の左右に垂れた髪毛《かみのけ》の色から縮れ工合まで、あの夢の中で、自分の背中の銀杏の葉の袋を切り破った女の子に一分一厘違いないではありませぬか。
青眼先生は暫くの間は、あまりの不思議に呆気《あっけ》に取られて、茫然《ぼんやり》と少女の寝顔に見とれておりましたが、やがてほっと大きな溜息をつきますと、何やらぐっとうなずきまして、震える手で窓をそっと押して見ますと、訳もなくスーッと左右に開きました。そこからそろそろと音を立てぬように中に這い込んだ青眼先生は、床の上に下りると直ぐに、毒薬の瓶の口を切って右手に持って身構えをして、丸|硝子《ガラス》の行燈《あんどん》の薄黄色い光りに照された少女の寝顔を又じっと見入りました。
見れば見る程美しい少女の姿。夕雲のように紫色に渦巻いた長い髪毛《かみのけ》。長い眉と長い睫毛《まつげ》。花のような唇。その眼や口を静かに閉じて、鼻息も聞こえぬ位静かに眠っている姿。見ているうちにあまり美しく艶《あで》やかで、何だかこの世の人間とは思われぬようになりました。けれどもなおよくあたりを見まわすと、その髪毛《かみのけ》の中や枕のまわりに一粒か二粒|宛《ずつ》、紅矢の枕元に在ったのと同じ位の大きさの紅玉《ルビー》が散らばっているではありませんか。
青眼先生はこれを見ると思わず声を立てて――
「悪魔」
と呼びました。
この声を聞くや否やその少女は直ぐにむっくりはね起きて、青眼先生の顔を一眼チラリと見ましたが、忽ち物凄い形相《かおかたち》になって――
「あれッ。青眼先生……妾《あたし》は美紅です。この家《うち》の娘です。悪魔ではありません」
と叫びながら紫の髪毛《かみのけ》をふり乱し、紅玉《ルビー》を雨のようにふり散らして、物をも云わず窓から逃げ出そうとしましたが、最早《もはや》遅う御座いました。青眼先生が注ぎかけた薬が身体《からだ》のどこかへ触《さわ》ると直ぐに、身体《からだ》中の血が氷になって、寝台《ねだい》の上にドタリと落ちて、見る見る内にシャチコばってしまいました。
青眼先生はこれを見ると、ほっと一呼吸《ひといき》胸を撫《な》で下しましたが、なおじっと気を落ち付けて動悸を鎮めて、それから死骸の傍へ寄ってよく周囲《まわり》を検《あらた》めて見ました。そうしていよいよ死んだという事をたしかめてから、
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