薬瓶の仕末をして懐《ふところ》に入れて、又こっそりと窓から出て行きましたが、もしや今の叫び声が聞こえはしなかったかと思いながら、急いで紅矢の室に帰って見るとこは如何《いか》に! 紅矢の容態は一寸居ない間《ま》に急に悪くなって、今にも呼吸《いき》を引き取る様子です。そうして固く握り詰めた左手の拳を千切れるばかりにふりまわしながら、囈言《うわごと》のように切れ切れに――
「口惜《くや》しい。口惜しい。悪魔。美紅」
 と云っています。
 その枕元に集まって泣きながらどうなる事かと心配をしていた紅矢の両親は、青眼先生が帰って来たのを見ると一時に走り寄って――
「助けて下さい。助けて下さい。紅矢を助けて下さい」
 と口々に叫びながらその袖に縋《すが》りました。
 流石《さすが》の病人に慣れた青眼先生も、これには驚き慌てまして、紅矢の左の手に飛び付いて、一生懸命こじ明けようとしましたが、どうして梃《てこ》でも動かばこそ、かえってだんだん強く握り締めるために、拳固が紫色から黒い色に変って行きます。青眼先生はいよいよ驚き慌てまして――
「失策《しま》った、失策った」
 と叫びながら、懐から鋭い小刀《ナイフ》を出して、その腕を黒くなった処から切り落そうとしました。これを見た両親はいきなり青眼先生の腕を捕えて引き離しながら――
「ナ、何をするのです。何をするのです」
 と叫びました。
「エエ。お放し下さい。今切らなければ鉄になりますぞ。紅矢様は鉄になってしまいますぞ。ハ……放して下さい」
「エエッ。鉄になる……」
 と両親は肝を潰して、青眼先生を放しました。
 先生は直ぐに紅矢の腕に取り付いて、二の腕の処に小刀《ナイフ》を突き立てて、ギリギリと引きまわしましたが、何の役にも立ちませんでした。骨でも肉でも豆腐のように切れる鋭い小刀《ナイフ》も、まるで鉛か銀のように和《やわ》らかく曲がり折れて、疵痕《きずあと》さえ付ける事が出来ません。その間《ま》に見る見る紅矢の身体《からだ》は腕から肩へ、肩から腕へと紫色が鈍染《にじ》み渡って、やがて眼を怒らし、歯を喰い締めて虚空を掴んだまま、身体《からだ》中真黒な鉄の塊となってしまいました。
 この恐ろしい不思議な死に態《ざま》を見た紅矢の両親は、足の裏が床板に粘り付いたように身動き一つ出来ず、涙さえ一滴も落ちませんでした。
 青眼先生も最早手の附けようもなく、紅矢の死骸を見詰めたまま、呆然《ぼんやり》と突立っていました。そうして独り言のように――
「身体《からだ》が鉄になる
 身体が鉄になる。
 見た事もない。
 聞いた事もない。
 悪魔の為業《しわざ》か。
 鬼の悪戯か。
 不思議。不思議。驚いた驚いた」
 と云っておりました。
 その中《うち》に東の空はほのぼのと明け渡って、向うの庭の枯れ木立の間から眩しい旭《ひ》の光りが、この室《へや》の中へ一パイに映《さ》し込みました。そうして大理石のように血の気が無くなったまま立ち竦んでいる三人の顔をサッと照しました。けれども三人は瞬《またたき》一つ為《せ》ず、身動き一つ出来ず、只黒光りする鉄の死骸の、虚空を掴んだ恐ろしい姿を、穴の明く程見つめて立っていました。
 するとはるか向うの丘の上に在る王宮の中から、美しい音楽の響《ひびき》が、身を切るような霜風《しもかぜ》に連れて吹き込んで来ました。それは今日宮中でこの国から選《よ》り抜いた、美しい賢い少女のお目見得をするという、世にも珍らしい儀式が初まるその前知らせでした。
 その時、二人の女中が来て室《へや》の入口で叮嚀に頭を下げました。その一人は静かな低い声で――
「濃紅姫のお支度が済みました。只今食堂で御待ちかねで御座います」
 と申しました。ところが今一人はこれと反対に歯の根も合わぬような震え声で――
「美……美紅姫……が……お平常着《ふだんぎ》のままで……寝台《ねだい》の中で……コ、コ、氷のように……冷たくなって……」
 と云う内に床の上に座り込んでワッとばかりに泣き崩れました。
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   第三篇 宝蛇


     十九 黄薔薇の籠

 濃紅《こべに》姫は昨夜《ゆうべ》夜通し、少しも眠る事が出来ませんでした。この頃自分のまわりに起ったいろいろの不思議な事や、恐ろしい事を考えながら、夜を明かしましたが、併《しか》しずっと奥の部屋に寝ていたのですから、その夜の中《うち》にどんな事が兄様や妹の身の上に起こったかという事は、まるで知りませんでした。そうしていよいよ夜が明けますと、お附の者に扶《たす》けられて湯に這入って、すっかり身体《からだ》を浄《きよ》めてお化粧をしました。先ず髪毛《かみのけ》には香雲木という木に咲いた花の油を注ぎ、白百合の露で顔を洗いました。身には袖の広い裾の長い白絹の着物を着て、上に
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