父様……お母様……妹共……危い危い。私の傍に居ると危い。悪魔は娘の美紅に化けている。そうしてあの悪魔の乗り移った『瞬』に乗って今にもこの窓から駈け込んで来たら……危い危い。出て行って下さい。妹共、出て行け。一人も私の傍へ居ちゃいけない。早く早く」
と叫ぶかと思うと、又ガックリと枕に頭をのせて、うとうと睡《ねむ》ってしまいました。こんな事が夜通しに二三度もありましたが、傍に居る人々は何の事やら訳が解からずに、唯《ただ》驚き慌てるばかりでした。そうして何は兎《と》もあれ用心のために、お母様や妹共をこの室《へや》から遠ざけまして、お父さんとその他にも一人、気の強い、力も強い家来の黒牛《くろうし》という者と二人で枕元に居る事にしまして、一方は、廏屋《うまや》の馬丁《べっとう》に申しつけて、『瞬』を厳重に柱に縛り付けて動かぬようにして、その上に番人を二人までもつけておきました。
翌る朝になりますとまだ薄暗いうちに、青眼先生が見舞いに来ました。紅矢の両親や家《うち》の人々はもう昨夜《ゆうべ》から心配に心配を重ねて、夜通しまんじりともせずに先生が来るのを待ちかねていたところでしたから、先生の顔を見るとまるで神様がお出でになったように前後《まえうしろ》から取り付きまして、昨夜《ゆうべ》からの事をすっかり話しました。すると青眼先生はどうした訳か、見る見るうちに顔色が変って、唇がぶるぶると震えて来ましたが、やがて思わず――
「七ツの悪魔。七ツの悪魔。そんな筈はない。そんな筈はない」
と口走りました。けれども皆から、どうかしてこの紅矢の不思議な病気を助ける工夫はないかと責め立てられますと、いよいよ何だか恐ろしくて堪らなくなった様子で、歯を喰い締め眼を見張ったまま天井を睨《にら》んで立っていました。併しやがて先生はほっと一息深いため息をしながら皆の顔を見まわして申しました――
「はい、承知致しました。もし悪魔が、私の知っている悪魔で御座いましたならば、屹度退治して差上げまする。けれども私の考えではこれは悪魔の仕業ではないと思います。私は悪魔の居所《いどころ》をよく存じておりますから」
「そしてその悪魔とはどんな悪魔ですか」
と紅木大臣は言葉せわしく尋ねました。青眼先生はこの問いを受けると又ハッと驚いた様子でしたが、やがて又何喰わぬ顔をして答えました――
「ハイ。その悪魔は世にも恐ろしい悪魔で、誰でもその悪魔の名前だけでも聞くと直ぐに悪魔に乗り移られて、自分が悪魔になってしまうので御座います。ですからその名前は申し上げられませぬ」
「では貴方はその名をどうして御存じですか」
紅木公爵夫人がこう尋ねますと、青眼先生はグッと行《ゆ》き詰《つ》まりました。そうしてさも苦しそうに返事をしました――
「それは私だけはその名前を聞きましても、又その姿を見ましても何ともないので御座います」
「まあ。不思議ですね。何か悪魔に乗り移られないいい工夫でも御座いますのですか」
「ハイ。それはあります。けれどもそれは私の家の先祖代々の秘密で、今申し上げる事は出来ませぬ。私の家は代々この秘密を守って、そして彼《か》の昔からの掟――人の姿を盗む者。人の声を盗むもの。人の生血《いきち》を盗む者。この三ツは悪魔である。見当り次第に打ち殺せ。打ち壊せ――という言葉を国中に広く伝えるのが役目で御座います」
「そうだそうだ。皆そんな掟が在ったという事を聞いた。それで思い出した。今美紅の姿を盗んでいる奴は悪魔に違いない。何卒《どうぞ》青眼先生、是非その悪魔を退治て下さい。貴方は病気の事ばかりでなく悪魔の事までも詳しく御存じだ。何卒《どうぞ》何卒御頼みします」
と紅木大臣は青眼先生の手を握って涙をこぼしながら頼みましたが、これを聞いていた他の者は皆真青になりまして、扨《さて》はいよいよ本当の悪魔が、紅矢様を狙っているのかと恐れ戦《おのの》いておりました。
青眼先生は承知したという印に胸に手を当て、敬礼をしました。そうして静かに紅矢の室に這入って、病人の様子を見ましたが、すっかり見てしまいますと、青眼先生は、ほっと安心した様子で皆に向って――
「皆様、御安心下さいまし。紅矢様の御病気は矢張り私の思い通り普通の怪我で、決して悪魔が狙っているのでは御座いませぬ。その御怪我も、只今は余程よくなっておいでになって、遠からず起きてお歩きになれる事と思います。けれどもなお用心のために、皆様は今までの通り、充分御気を附け遊ばして、御介抱なさるが宜《よろ》しゅう御座いましょう」
と申しました。そうして皆に挨拶をして悠々と家《うち》に帰って行きました。
けれども青眼先生は紅木大臣の家の門を出ると直ぐに、腕を組んで頭をうな垂れて、何かしきりに考えながら歩き出しました。そうして口の中で絶えず――
「
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