って、橋の欄干《てすり》から身を躍らして河の中へ飛び込みました。
 この体《てい》を見ますと、今まで橋の欄干《てすり》に縋り付いて泣いていた婆さんが、急に泣き止んで矗《すっく》と立ち上りまして、いきなり頭巾や、外套や、手袋をかなぐり棄てますと、お婆さんと見えたのは美留藻《みるも》が化けたので、今ドンドン流れて行く果物と、それを追《おい》かけて行く紅矢を眺めて気味悪くケラケラと笑いました。そうして声高く、
「お兄様……悪魔の美紅をよく御覧なさい」
 と云うかと思うと直ぐに、傍に脱ぎ棄ててある紅矢の帽子から靴まですっかり盗んで身に着けるが早いか、ヒラリと「瞬」に飛び乗って、強く横腹を蹴《けり》付けながら、一足飛びに都の方へ飛び出しました。

     十五 白木綿

 悪魔美留藻はやがて何百里という途を矢のように飛ばして、名前の通り瞬く間に都に到着しますと、美留藻は先ず呉服屋へ参りまして、晒木綿《さらしもめん》を買いまして、それからとある人通りの少ない横路地へ這入りました。そうして上衣やズボンの方々に泥を沢山なすり付け、その上に顔中すっかり繃帯《ほうたい》をして眼ばかり出して、男だか女だか解らぬようにして終いますと、今度はこの都第一の仕立屋へ這入りまして、紅矢の声色を使って、自分は総理大臣の息子の紅矢である。最前馬から落ちて顔に怪我をした上に、大切な着物を汚してしまったのだが、明日《あす》は又王宮に行かねばならぬから、今日の正午《ひる》迄に今一着同じ服と、外套一枚を仕立て上げろ。但し材料《しなもの》や飾りは出来るだけ派手な上等のものにして、鈕《ぼたん》にはこれを附けるようにと云いながら、髪毛《かみのけ》の中から大粒の金剛石《ダイヤモンド》を十二三粒取り出して渡しました。
 折よくこの仕立屋の亭主は紅矢の家《うち》へ出入りの者で、紅矢の身体《からだ》の寸法を心得ていて、委細承知致しましたと受け合って、金剛石《ダイヤモンド》を受け取りましたから、美留藻はなおも念を押して、家《うち》中総掛りで屹度間に合わせろと命じて、又馬を飛ばせました。それから帽子屋へ参りまして上等の帽子を、矢張り正午《ひる》迄の約束で誂《あつら》えまして、その飾りにと云って、ここへも大きな金剛石《ダイヤモンド》を一粒渡しました。それから剣屋《つるぎや》へ行って剣を、靴屋へ行って靴を、手袋屋へ行って手袋を、皆|正午《ひる》までに最上等の分を調えておくように申し付けまして、今度は王城の西の方に向って馬を飛ばせました。どこへ行くのかと思うと、やがて美留藻は紅矢の家を尋ね当てまして、大胆にも表門から駈け込みましたが、馬から降りると直ぐに玄関に駈け寄って、その石段の上に伏し倒れて、悲し気な声で家《うち》の者を呼びました。
 家《うち》の者は、紅矢が昨日《きのう》旅から帰ると、直ぐに王宮へ行って、又王宮を飛び出して、「瞬」に騎《の》って王宮の周囲《まわり》を七遍も駈けまわって、そのまま昨夜《ゆうべ》の内に行衛《ゆくえ》が知れずになったという噂を聞きまして、薩張《さっぱ》り理由《わけ》が解らず、もしや王様から大層な急用でも仰せ付かったのではあるまいか。それとも帰り途に散歩に行って、大怪我でもしたのではあるまいかと、大層気を揉んでいるところでしたが、この声を聞くや否や皆一時に、素破《すわ》こそと胸を轟かして玄関に駈け付けて見ますと、こは如何《いか》に。
 紅矢は余程の大怪我をしたものと見えて、顔中繃帯をして、呼吸《いき》を機《はず》ませて倒おれております。この体《てい》を見た両親や、その他の者の驚きは一通りでありませんでした。直ぐに大勢で紅矢の寝床へ担《かつ》ぎ込《こ》みましたが、生憎な時は仕方のないもので、この家《うち》のお抱えの医者は、二三日前から遠方の山奥へ薬になる艸《くさ》や石を採りに行った留守で、とても一月や二月で帰って来る気遣いはなく、今の間《ま》には勿論《もちろん》合いませんでしたから、仕方なしに宮中のお抱えの青眼先生の処へ使いを立てて、大急ぎで御出《おい》で下さるようにと頼みました。丁度青眼先生は藍丸王のお叱りをうけて家に引き籠もっているところでしたが、紅矢が怪我をしたと聞くと直ぐに承知をしまして、薬を取り揃えて出かけました。
 青眼先生が来る迄に、美留藻の似せ紅矢は鋭く眼を配って、家《うち》の中の様子を見ますと、案の定この家の中に居る人々は、この間自分が夢の中で見た、美留楼《みるろう》公爵の家の人々にそっくりで、声までも少しも違いませぬ。美留藻は吾《わ》れながら眼の前の不思議に、今更に驚いてしまいましたが、又気を取り直しまして、それではこの家の末娘の美紅というのが、いよいよ自分と同じ夢を見て、吾れと吾が身を疑っているのに違いない。そうしてその姉の濃紅姫は、自分と一
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