見なくともよい。それよりも早くあの馬と、その騎《の》り人《て》を見せてくれ。あれ、もう三度まわった。疾い疾い。何者だ。何者だ」
 と呼吸《いき》は機《はず》ませて尋ねました。この言葉の終らぬうちに、早くも赤鸚鵡の眼から電光のように光りがさして、鏡の表面《おもて》が颯《さっ》と緑色に曇って来ました。そうして又ギラリと晴れ渡ったと思うと、一人の騎馬の少年の姿が現われました。それは最前王宮を出て行った紅矢でした。
 紅矢は今まで親よりも敬って、兄弟よりも親しく思っていた藍丸王が、まるで鬼よりも無慈悲な心になり、虎よりも荒々しい声に変って、その上に今は又、自分の妹の事を露程も思って下さらない事がわかりますと、あまりの事に驚き悲しんで狂気《きちがい》のようになって王宮を駈け出ると直ぐ、そこに繋いでおいたこの国第一の名馬「瞬《またたき》」というのに飛び乗って、手綱《たづな》を執《と》るが早いか馬の横腹を拍車で千切れる程蹴り付けました。すると今まで只の一度も鞭の影さえ見せられた事のない「瞬」は、思いがけない主人の乱暴な乗り方に驚いて、これも夢中になってしまいまして、ヒーンと一声|棹立《さおだ》ちになったと思うと、そのまま一足飛びに駈け出しました。
 けれども紅矢は「瞬」がどんなに驚いて、どんなに疾く駈けているのか気が付きませんでした。只最前の王の荒々しい言葉や声が、まだ聞こえるように思い、又家に帰ってこの事を濃紅姫に話す時の濃紅姫の顔が、今眼に見えるように思って、胸の内は掻き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》られるようでした。そうしてこのままこの馬と一所に高い崖からでも落ちて死ねばいいと思いながら、両手を手綱から放して、頭の毛を掻き掴んで、星の光りの冴《さ》え渡った空を仰ぎながら、馬の横腹を蹴立て蹴立てて、人通りの無くなった都の街を、滅茶苦茶に走らせました。
 すると馬は益々驚き慌てまして、白泡を噛み立髪を逆立てながら、足を空に揚げて王宮の周囲《まわり》を瞬く間に六七遍ぐるぐるとまわりましたが、七遍目に王城の前の広い通りへ出ますと、そのまま南の宇美足国へ通う街道を一散に駈け下りました。
 紅矢は馬が走れば走る程、気持ちがだんだん晴々《せいせい》して来るようですから、なおも構わずに走らせていますと、その中《うち》に夜が明け離れて、向うに遠く白く光るものが見えて来ました。これは一つの湖で、大層大きい様子ですから、紅矢ははじめて馬を控えて通りがかりのお婆さんに――
「お婆さん。あの湖は何という湖ですか」
 と尋ねました。そのお婆さんは頭巾と覆面で顔をすっかり隠して、片手に短い杖を突き片手に重たい果物の籠を提げて、さも疲れたらしくよぼよぼと歩いていましたが、今紅矢からこう尋ねられると、立ち停まりながらやっとこさと腰を延ばしまして――
「はい。あれは多留美という湖で御座います」
 と教えました。紅矢は思いの外に遠くに来ているのに驚きまして――
「何。あれが多留美という湖かい。これは驚いた。では南の国の都も最早《もはや》遠くないんだ。それではそろそろ引き返そうか」
 と馬の首を引き廻しましたが、又|不図《ふと》このお婆さんが如何にも疲れているのに気が付きまして――
「お婆さんはどこへ行くのですか」
 と尋ねました。そのお婆さんは覆面の下から、しきりに紅矢の様子を見ている様子でしたが、この時さも弱り切ったように溜息《ためいき》をしまして、自分はあの多留美の湖の片傍《かたほと》りに住んでいる者だが、近い内に王様がお后を御迎え遊ばすという事を聞いたから、そのお祝いに自分の家の庭の樹に生《な》った果物を籠に入れて差し上げに行くのだと答えました。これを聞くと紅矢は濃紅姫の事を思い出して、嗚呼《ああ》これをもし自分の妹が受け取るのだったら、どんなにか嬉しい事だろうと胸が一杯になりました。併し今このお婆さんの忠義な心掛けにも大層感心をしまして、いよいよその疲れているのが気の毒になりまして、それでは自分も都からここまで散歩に来たもので、今から引きかえすのだから丁度いい、一所に馬に乗せて宿屋の在る処まで連れて行って上げようと勧めました。お婆さんは頻《しき》りに遠慮をしました。けれどもとうとう紅矢の親切な言葉を断り切れず、鞍の前輪《まえわ》に乗せられて都の方へ連れて行かれました。
 紅矢はお婆さんが眼をまわすといけないと思いまして、わざとそろそろ馬を歩かせましたが、このお婆さんは中々話し上手で、紅矢の顔色の悪いのを見て、いろいろ親切に尋ねましたから、紅矢もうっかり釣り込まれまして、自分の心配の種の濃紅姫の事や、王様の御気性が荒々しくならせられた事、それからあまりの事に驚いて何が何やら解からなくなって、夢中に王宮を飛び出して、無茶苦茶に街中を駈けめぐって
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