のではあるまいか。
 日本民族の全人類に対する使命を自覚し、これを達成する程の活力ある生命は、ペンキ塗の窓の中に人工の光りに照らされて、ストーブに蒸されて濁った空気を与えられて育てらるべきものでない。新しい、強い、生きた魂は、清らかな太陽と、シットリした大地と、真面目に真面目に伸びて行く草木との間に立って、爽やかな空気を呼吸しなければ美しく生長せぬ。
 新たに天下を取る者は常に田舎者である。都会人は常に田舎者の支配下にある。死んだ魂――売り物買い物である魂――投げやりな魂が、売り物買い物でない、生きた魂に支配されなければならぬのは当然の事である。
「都会」が「田舎」を軽蔑する理由は絶対にない。同時に、地方人が東京を尊敬し、憧憬するところも亦絶対にあり得ない――という事を、今の「東京人の堕落時代」は最も明瞭に証明しているのではあるまいか。
 そうして、吾が日本民族は、今の中《うち》にこの意味で覚醒する必要はあるまいか。
 今日の如く、東京を憧憬する人々、東京の文化を本当の文化と信ずる人々が無暗《むやみ》に殖えて行ったならば、今に日本人全体が東京人のようになってしまいはしまいか。一朝国難にでも際会したならば、吾が大和民族は、遂にその首都の東京人が地震の打撃に依って本音を吹いた如く、ダラシない民族と成り果てはしまいか。
 しかも――。
 このような自覚――思想は都会人に依って宣伝されたのでは駄目である。否……厳密に云えば、記者の如き手の白い労働者によって称道されたのでも駄目である。
 却て、地方の純真な、堅実な、そうして口も筆も不調法な、若い人々の腹の底でウ――ンと覚悟されたのでなければ、絶対に無力、無価値なものとなるのではあるまいか。
 記者はこれだけの疑問を読者諸君に呈したいためにこの稿を起した。自ら惴《はじ》らぬ罪は謹んで負う。[#地から1字上げ](大正十四年三月三十一日夜)



底本:「夢野久作全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年6月22日第1刷発行
※底本の解題によれば、初出時の署名は「杉山萠圓《すぎやまほうえん》」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、「六ヶしい」は大振りに、それ以外は小振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年4月28日公開
2006年5月3日修正
青空文庫作成ファイル:
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