。故郷を遠ざかった世間見ずの若い連中が、次第に大胆になっていろんな不良性を発揮する。
嘘を吐いて為替をせしめる。学校をサボってゴロゴロする。エラガリ競争をして低級なイタズラをやる。又は新智識を衒《てら》って雑誌や新聞の受け売りを吹く。女を見ては色眼を使う。
それが学生だというので、ドンドン通ったり、モテたりすると、世間はこんなものかと思われて来る。
図々しい奴は実社会に応用し始める。一度二度と成功すると、いつの間にか学校|糞《くそ》を喰らえで純粋の不良になってしまう。侮辱していると云う人があるかも知れぬが事実である。その筋に睨まれた不良にはそんなのが多いから困る。
苦学生のは又違う。
彼等は何でも成功しようと思って東京に来るのであるが、案外うまく行かないとジリジリする。世間の冷たさが骨身にこたえる。自分の青春が見る見るイジケて行くのがわかる。とうとう我慢し切れなくなって、「成功」と「享楽」の「早道」に這入る。とうとうしまいには「成功」の方を忘れてしまって、「享楽」だけを追いまわし始める。それでおしまいである。
苦学成功の油断から
反対に苦学に成功した場合でも堕落する可能性がある。
苦学に成功すると独立独歩で、誰も八釜しく云う者が無い。つい慰安の意味で遊んで見る。忽ち苦学では追付かなくなる。
さもなくとも初めから成功が目的だから、喰えさえすれば学校なんぞはどうでもいい。学費を稼ぐのが馬鹿げて来る。
おまけに「世間はこれ位のものか」という気になっている。その油断から不良風を引込む。東京市中の到る処の抜け路地は、苦学の御蔭でチャンと飲み込んでいるから、堕落するのに造作はない。
東京の家庭の婦人、色町の女、魔窟の女なぞが、苦学生というと無暗《むやみ》に同情するのも彼等のためにならぬ傾向がある。
帝大の苦学生で、苦学生の元締めをやっているのがある。本郷に大きな家を借りて苦学生を泊める。納豆を二銭乃至二銭五厘で仕入れて来て、三銭五厘で卸してやる。苦学生はこれを五銭に売って食費を払う。その二階に大学生は陣取って、変な女を取り換え引き換え侍らして勉学? をしている。
不良とは云えまいが、ざっとこんな調子である。
少年の悩みから
一般に今の若い人々は、「将来」に対して一つの大きな悩みを持っている。
少年の方は、学校を出てから何になろうか、自分の才能がどんな仕事に向くだろうかという事を発見し難く、モヤクヤと困《くる》しんでいる。
十人十色の才能を見分ける事をせずに、一列一体の学課を詰め込む主義の今の教育法は、一層この悩みを深刻にする。猛烈な成績の競争と試験制度は、彼等を神経衰弱になるまでいじめ上げる。
その結果、彼等はいよいよ実社会に対する気弱さを増す。そうして遂に自暴自棄に陥る。
或る一つの天才しか持たぬ青年、又は生れ付き学問に不向きなタチの少年は、いつも成績不良の汚名を受けて、学校や家庭から冷遇される。その果《はて》は矢張り自暴自棄で、踵《くびす》を連ねて不良の群に入る。
これは云い古された議論である。寧《むし》ろ記者の受売りである。
併し、現在の東京と対照させると、この議論は決して古いものでなくなる。却て新しい、高潮さるべき実際問題となって来る。
現在の東京に見る見る増加して行く極端な対照――非常な華やかな生活と恐ろしくミジメな生活――遣り切れぬ享楽気分と堪え切れぬ生存競争――その中にニジミ流るる近代思想は、彼等少年の「勉強」に対する頭の集中力を攪乱し、その「誘惑」に対する抵抗力を弱むべく、日に日に新しい深刻味を加えて来つつある。
少女の悩みから
少女の悩みは又違う。
どうせお嫁に行かねばならぬが、その婿は自分で撰むわけに行かぬ場合が多い。そうして、いい処に行くために、面白くも何ともない学校の成績を挙げねばならぬ。ジッと音《おと》なしくしていなければならぬ。
――家事を習って――お裁縫を習って――作法を習って――お化粧をして――そうしてお婿さんの趣味と一致せねばならぬ――何でも盲従しなければならぬ――。
女なんて、そんなつまらないものかしら。
そんなら独立するとすれば――職業婦人にならねばならぬ。内的にあらゆる誘惑と戦って――外的には男子と実力の競争をして――そんな事が妾《わたし》に出来るか知ら――妾の趣味、智識の内容にそんなねうちがあるのか知ら――。
今の東京はそんな悩みを刺戟する最新、最鋭の材料に満ち満ちている。
こんな悩みが深ければ深いだけ、それだけ少女の頭に湧く空想や妄想が殖える。次第にセンチメンタルになり、神経衰弱になり、刹那の感興に涙ぐんだり狂喜したりする傾向が極端になる。そうして欺され易く、感化され易くなる。又は悩み抜いた揚句が、投げ遣りの自堕落になる。
いずれも不良の原因である。
こうして一度傷ついた彼女の心の痛みは、だんだん早い速力を持って彼女を不良の谷に引き落す。
おいらのせいじゃない
すべての子女は、親よりも純清な心を持っているにきまっている。それが不良になるのは、家庭と社会の欠陥――即ち大人の不始末からである。
先天的の不良性でも、それは矢張り数代、もしくは数十代前からの大人の不仕鱈《ふしだら》が遺伝したものである。子女の不良を責める前に、大人は先ずこの事を考えねばならぬ。
ところが実際は反対に見える。
子女の不良が或る程度まで進むと、不良仲間から認められると同時に社会からも認められる。親兄弟、一家親族、知人朋友、学校警察まで、よってたかって善良世界を追い出して、不良の世界へ追い遣ってしまう。そうして「おれたちのせいじゃない」と思ったり、云ったりしている。
言語道断である……。
……と、今の不良たちは、また殆ど十人が十人思っている。「おれがこんなになったのは境遇からだ」とか、「すべては運命だ」とか云っている。「おれたちが悪い事をしているのじゃない。世間がさせるのだ」位に心得ている。
これが又言語道断であるが、事実、そんな錯覚に陥る原因が多いのだから仕方がない。警察で説諭をしても、こんな理窟で逆《さか》ねじを喰わせられる。少年ばかりでない、少女がやるから困ると係官は云う。
彼等不良少年少女は、だから案外堂々と不良行為をやる。捕まるとウルサイから用心をする位の事である。中には積極的に社会や警察をカラカッテ面白がるのさえある。
女性の自由解放と虚栄奨励
本物の不良少女になる順序に二タ通りある。第一は虚栄から始まって万引に移る。その虚栄の本場は東京である。最近の派手な風俗は、一面から見れば狂的の虚栄競争である。その万引心理をそそる品物が全市に満ち満ちている。
しかし、こちらの話はよく雑誌や新聞に載っているから略するが、こんなのが高じて良心を喪うと詐欺をやり、恐怖心を磨《す》り減らすと恐喝までやる事になる。
近頃の女学校の個性尊重、自由解放主義も、虚栄を奨励していると見られる。
若い女性の個性尊重、自由解放は、正面から見れば誠に結構な事であるが、裏面から見ると実につまらないものである。
極端に皮肉に見れば、東京の女学校――わけても私立の教育方針は、真実に近代思想を理解して、指導的に女性解放をやっているように見えない。反対に、人気取りのためにお嬢さん方の希望と迎合しているかのように見える。だからその結果は、無意味な虚栄奨励、見栄坊許可という事実に堕ちている。
その結果、彼女達仲間の嫉妬心や羨望心を増長させている。手癖の悪い娘が出来たり、虚栄のために身を持ち崩すお嬢さんが出来たりしている。
その証拠は新聞の軟派の雑報を見るがいい。又は警察に行って聞いて見るがいい。
自惚《うぬぼ》れから堕落へ
少女の堕落の今一つは、矢張り近代思想の誤解から始まって享楽主義に落ちる事である。この世は無意味である。只、享楽だけがある。人生は零である。只、刹那の感興だけしかない。これに対して人間は絶対に自由でなければならぬ……といったような思想を、極めて低級な意味に考えて実行する。
実は、うぬぼれていい――堕落して構わない――と考えて堕落した事になる。
今の東京はうぬぼれの大競争場である。あらゆるおめかしの大品評会場である。大抵の風姿《なり》をしても驚かぬ程、その競争は激烈である。
活動役者の表情の技巧や、近代芸術の線や色彩は、そんなに別嬪《べっぴん》でなくとも挑発的に見える化粧法や表情法を、到る処に鼓吹している。
そんな研究に浮身を窶《やつ》しているうちに、彼女たちは自分の持っている性の強さ、魅力を知るようになる。又は、女の弱身をそのまま男性に対する強みにする方法を飲み込むようになる。
これが堕落の初め終りである。
芝居や実世間のバムパイヤになれる唯一の大道である。
女学生なら、先生に泣き付いて出欠を胡麻化《ごまか》す。色仕掛で落第を喰い止める。職業婦人だと、会計を軟化させて前借をして逃げる。重役の令息の新夫人に脅迫状を送る……なぞいうのがいくらも暗《やみ》から暗《やみ》へ葬られている。新聞に出ているのはその一部分である。
泥棒の手習い場
一方、本物の不良少年も、異性を引っかけるばかりでない。泥棒、詐欺、脅迫なぞいろいろやる。そうしてこの種類になると、極《ごく》軽いのでも本物の不良としてお上《かみ》から睨まれるのである。男女関係のそれのようにありふれていないからでもあろうか。東京市中はこんなあらゆる種類の「不良養成所」である。殊に現在のバラック街はそうである。
震災後急増した飲食の新店、又はその新しい雇人は、不良式ゴマ化しに持って来いの研究相手である。
そんな飲食店の食器や備《そな》え付《つけ》品を、初めは楊子《ようじ》入れ位から始めて、ナイフ、フォークに到る迄失敬して、泥棒学のイロハを習う。だんだん熟練して、額縁や掛物、皿小鉢や鍋に及ぶ。
いい洋食店なぞは入口でマントや帽子を預かるが、これが盗難警戒である事なぞは先刻御承知であろう。
尤《もっと》もこの式は大人もやるが、若い者も面白半分に盛にやる。だんだん慣れて来て、こんな楽なものかと思うのが本手になる始まりである。喰い逃げもよくやるが、詐欺の第一歩である。
澄まして喰物を注文してポツポツやりながら、椋鳥《むくどり》を見つけて話し込む。その中《うち》に都合よく表に飛び出す……といった式が一番ありふれている。ポット出の学生なぞはよくやられる。
借りたインバネス
大勢連れで露店を掻きまわしたり、飲食店の皿数を胡麻化《ごまか》したりするのは、東京に限らぬ学生たちのわるさである。
隣席の客の下足札をすり換えて穿いて行く。あとでお客が面喰らうのを見ているとなかなか面白いという。面白いかも知れぬが立派な泥棒行為である。
一人の青年が、田舎者と公園で知り合いになって、一緒に飲食店に這入った。煙草を買いに行こうとすると、生憎《あいにく》雨が降り出したので、一寸のつもりで田舎者のインバネスを借りて出て行った。
「貸さない」
とは云えないまま貸したものの、田舎者は心配になった。急いで金を払って、雨の中を青年の行った方へ行くと、二人の友達と四辻で話をしている。その中《うち》に電車が傍《かたわら》を通ると、三人共飛び乗って行った。
田舎者は驚いた。
近所の交番に駈込んで、電車の番号とその青年の風采を告げた。交通巡査が直《すぐ》に赤いオートバイを飛ばして、その電車を押えて、青年と友達を引っぱって来た。
青年は三人共某大学生と名乗って、しきりに田舎者にあやまったが、田舎者は承知しなかった。三人は警察へ連れて行かれた。
一時は真黒な人だかりであった。記者もその中の一人であったが、今でも本物の不良かどうかわからずにいる。
大正十三年十月二日午後二時頃、浅草公園雷門前での出来事――。
色魔学のイロハ
女給をからかうのは、色魔学のイロハのイである。
眼ざすカフ
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