凄いのが驚くべき多数に上っている。
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商売の巻
最新式「無言の正札」
或る哲学者がこんな事を云った。
「おかめ[#「おかめ」に傍点]とヒョットコの小さなお面を背中合わせにして、中に笛を仕込んだオモチャが昔あった。あのおかめ[#「おかめ」に傍点]の愛嬌が『商売』を象徴《あらわ》し、ヒョットコの仏頂面が『生活』を標示している。これを両方から押えるから、ピーピーと世間が成り立って行くのだ」
そのつもりで東京人の商売振りを観察して見る。
ボンヤリと浅草に来て見る。ここならいろんな商売があるだろうという了簡《りょうけん》である。
雷門前の仲見世は昔にかわらぬ繁昌で、雨の降る日でも一軒二百円の収入があるというが、何だかあまり儲かり過ぎるようだから噂だけにしておく。
どの店も大勢の人通りの前にズラリと商品を並べているが、どの店もどの店も黙りこくった愛嬌のない顔が並んでいるのが一寸《ちょっと》眼につく。無論、立寄ればすぐに、「入らっしゃいまし」とか何とか黄色い声を出すが、さもない時は口を一文字に閉じ、つまらなさそうな眼付きをして往来をジロジロ見送っている。
紅梅焼きを焼く銀杏《いちょう》返しを初め、背広を着て店に並んで、朝から晩まで三円五十銭の蓄音機を鳴らす三四人の青年、お人形のお腹を鳴らすお神さん、猫や兎のオモチャを踊らすお婆さん等、どれもこれも買って下さいというような顔は一つもない。只まじめ腐って、生き人形のように手を動かしているばかりである。
震災後二三ヶ月の間のここいらはこんな事ではなかった。皆声を限りにお客を呼んで、素通りをしても昂奮《のぼ》せ上る位であった。これが今では、「入らっしゃい」とも「如何様」とも何とも云わないから、何だか浅草らしくないような気がする。
しかし考えて見ると、いろんな呼び声を出してお客の反感を買うのは野暮の骨頂である。こうして品物を並べたり動かしたりしているのが、最も適切に「イラッシャイ」や「イカガ様」を表現している事は見易い道理である。
しかもその品物のどれにもこれにも、一つ残らず大きな正札が付いているから、一層現実的である。中には五六間離れても見える位大きな価格札《ねだんふだ》があって、品物に依っては札の下に隠れてしまっているのもある。この辺が浅草式であろうか。
こうした現代式は単に浅草の仲見世に限らない。第六区の方へ抜けて行く左右の通りの店はみんなそうである。
かなり大きな洋品店でも奥の方から一々持ち出す模様はなく、洗い浚《ざら》い店に並べて、一ツ残らず名刺型の紙に洋数字を書いてくっつけている。
中には半紙三枚続き位の西洋紙に、
「可驚《おどろくべき》提供《ていきょう》……二円八十銭」
と色インキで書いてブラ下げて、その下に相当な中折れ帽を硝子《ガラス》の箱入りにして、店の前に出してあるのもある。つまり値段を看板にしたわけである。「薄利多売主義」とか「負けぬ代りに安い」という看板は、こんなのに比べるととても廻りクドくて問題にならぬ。
但、その帽子を手に取って見ると、途方もなく大きいので誰も買おうとしないが、それでも相当に人だかりがしている。この辺も浅草式の代表的なところであろう。
そのほか浅草のカフェーの菓子、握りすし、盛すし、天プラ、印形、青物なぞ、何でもカンでも正札付きで、中には支那料理の折詰なぞいう珍品もある。
無正札は「女」だけ
浅草辺の店ではショーウインドに凝った趣向なぞを用いない。旗や看板なぞを極端に派手にする代り、店の中は窓も棚もテーブルも一面に商品を並べて、悉《ことごと》く大文字の正札をつけておく。いらっしゃいとも何とも云わぬ……という式が多い。
こうしておけば、買わぬはお客の自由というように見えるが、実はそうでない。安いものは通りかかりにでもちょっと眼に付く。ふりかえる。立ち止まる。よく見る。ほかのと見比べる。気に入ったのがあれば買う。無ければ買わないという直接法の一点張りで、品物のよしあしは別として、まことに手数がかからない。
流石《さすが》に丼屋や何かいう喰物店は実物を並べて正札をつけてはないが、それでも中に這入《はい》ると壁一パイの正札である。喰べる処は大抵椅子|卓子《テーブル》式で、腰をかけるとすぐに、
「何に致しましょう……畏《かしこ》まりました……エエ、五十銭に八十銭に一円……一円二十銭と四通りで……」
とあたりに響く大きな声で正札を云う。これに屁古垂《へこた》れる人間は浅草で物を喰う資格はない。
ギリギリ決着のところ、浅草で正札の付いていないものは、「女」だけと云ってもいい位である。
こうした大文字の正札式は浅草ばかりではない。神田、本郷、牛込あたりの第二流の繁華な通りはもとより、銀座あたりの一流どころにもポツポツ見受けられる。しかしこの式の最も盛なのは浅草で、ここを遠ざかるに従ってチラリホラリとなって行くところを見ると、この式の開山は矢張り浅草で、ここを中心として東京の商売は「現実化」して行くのではあるまいかと考えられる。
そうして仲見世の実地試験応用の無言の行は、現実式中の現実式と云うべきであろう。
こんな事を云うとその道の人に笑われるかも知れないが、論より証拠、こうした正札一点張りの店で買ったり喰ったりしたあと、正札の付いていない店へ行くと、何となく不安心な上に、一々店の人に出してもらったり、価格を聴いたりしなければならぬので、恐ろしく面倒な気持がする。
店の方では叮重《ていちょう》なつもりかも知れぬが、忙しい人間にとっては迷惑千万である。そんな事で手間取らせられてはたまらない。おまけに小僧や女店員がわからないで番頭の処に聞きに行ったりすると、いよいよそうした気もちになる。
殊にお世辞や、お愛想はまことにうるさい。余計なものまで買わなくてもいいのに買わされるような気がして、一種の不愉快さえ覚える。それを思い切ってやめると、
「まことにお気の毒様」
と心からあやまられて、逃げるように表へ出てホッとするような事が珍らしくない。
浅草ではそんな気兼ねは向うにもこちらにも無い。お金はこちらのもの、品物は向うのもので、あとは「もの」と「ねだん」の相談ずくで済む。しかも売り買いの中心は要するにそこ[#「そこ」に傍点]だけである。そこ[#「そこ」に傍点]を最も露骨に大道に表現しているから、浅草の店は現代式と云い得るわけである。追々《おいおい》と世の中が世智辛《せちがら》くなって来たら、こうした正札一点張りの無言の商売が大流行《おおはやり》をするようになりはすまいか。
こう考えて来ると、浅草の観音様はエライものである。この無言と正札一点張りの仲見世の商売振りに、今一層輪をかけた商法《あきない》の名人である。第一正札も無ければ、「毎度有り難う」も云わぬ。御利益のねだん[#「ねだん」に傍点]は向うで勝手にきめて、ドシドシ賽銭《さいせん》箱に放り込んで行くのだから、お手に入ったもの。しかも自分ばかりでなく、まわりに大黒様だの何だの彼《か》だのと、数十の神仏に元手要らずのデパートメントストアを出させて、何百年間大繁昌をして御座るのだから恐ろしい。おまけに御本体が一寸八分の黄金仏だとも云うし、木仏だとも云う。本当に御座るか御座らないか、それすらわからないのだから驚き入るほかはない。理想的と云っても現実的と云っても、天下これ以上の商法の名人はあるまい。
犬と羊と熊の皮
扨《さて》……観音様の商売振りには及びもないが、日本中の商店が浅草式の「無言正札」で、時間と人間経済の現代式一点張りになったとする。そうしたら只さえ人口過剰の日本は、フン詰まりになりはしまいかと云う人がないとも限らぬが、「心配無用」……。
雷門をくぐって、観音様の前を左へ行くとすぐにわかる。
第六区へ行く途中の往来に茣蓙《ござ》を敷いて、白や黒や茶色の毛皮を十五六枚並べる。その上に日に焼けた若い男が前垂れをかけて鳥打を冠って、しきりにベランメー語を高潮している。
「どれでも構わねえ、手に取って見ておくんなさい。正真正銘の熊の皮が犬や猫の皮とおんなじ[#「おんなじ」に傍点]値で買えるんだから、安いと思ったら持ってっとくんなさい。二枚か三枚はけ[#「はけ」に傍点]れあ、あっし[#「あっし」に傍点]等《ら》あ帰《け》えるんだから……。
あっし[#「あっし」に傍点]等あ、ふだん北海道に出かけている皮商人《かわあきんど》ですがネ。ちょうど北の方の千島、カムサツカ、北海道の山奥あたりから引《し》き上げて来る熊の皮屋から皮を仕入れて、あと月の半ばに東京へ着いたんです……。
ところで御承知の通り、毛皮商人《けがわあきんど》ってえなあ半期取引ですから、今コレだけの皮を捌《さば》いても、この節季でなくちゃ金が取れねえ。そこへ金の要ることが出来たんで、こんな事をやっているんですがネ。慣れねえから、失礼なことを云ったら御免なさい。だが本物の熊の皮が二十円や三十円じゃ、あなた方の手には這入りっこない。御承知かしらねえが、熊の皮には二十八通りあって、価格《ねだん》もいろいろあるが、これは北海道の羆《しぐま》の皮だ。こんな立派な皮で、この通りお上《かみ》の検査済みの刻印の付いた奴が、只の十円と云いたいが、思い切って八円半までお負けしとく……。
御存知か知らないが、皮のなめし[#「なめし」に傍点]は東京が一番ですよ。梅雨時になって虫の這入るような事は絶対にない。その代りなめし賃が高価《たか》い。差引くとあとは幾何《いくら》にもならないのを、今云ったようなわけで捨て売りにするんだ……。
失礼ながら皆さんは職業紹介所のアブレじゃあるめえ。バラックの東京から鉄筋コンクリートの東京になるまで奮闘しようという人だろう。そのバラックの寒さを凌《しの》ぐにゃあ、これが一番だ。ボロボロ綿の晒《さら》しグルミの夜具を買ったって、五円十円は飛んで行く。それがどうです、この熊の皮が八円半だ……こっちの大きい方は二十円コッキリと云いたいが、もう仕舞い時だから只の一本半……十五円に負けとく……。
それからどうです……こっちの白いのは……これが北極の氷山に住んで人を喰う白熊だ。五十や百のハシタ金で手に入る代物じゃない。これが昨日《きのう》までは四十五円と云っていたが、今日は諦めて四十円にしておく。惜しいけれども仕方がない。その上負けろったら四十一円だ……どうです、買いませんか旦那……まったく末代道具ですよ……こっちの親方あ、どうです……」
こう聴いているうちに、扨はバラック住居《ずまい》の連中の稼ぎ溜をねらっているなと感付いた。しかしそれにしてもあんまり安過ぎるから、調べて見たら、みんな黒犬と羊の皮だと聴いて開いた口が塞がらなかった。
その後気を付けたら、方々の縁日でやっているので、益《ますます》驚いた。とても「無言正札主義」なぞの及ぶところでない。つくづく日本は広いと思わせられた。
一円七十銭争奪戦
前に述べた「無言の正札主義」と「おしゃべりのゴマカシ流」とは、現代式営業の両極端を見せている事になる。これに観音様の「無言の無正札」式営業振りと、境内の乞食の稼ぎ振りと、チンピラの掻《か》っ泄《さら》い生活、立ちん坊の働き具合まで加えると……大きく云えば人間世界……小さく見れば全東京のあらゆる商売振りを代表したものが、十八間四面のお堂のまわりに集まっている事になる。
但、これは昔からあるので、今度震災後特に眼に付いたのは、その売り物の価格が向上した事と、そのねらっている客筋が違うことである。
毛皮売りは大道商人の中でも一番|高価《たか》いものを売るのだそうだが、まだこのほかにも一円以上のものを大道で売るのが沢山居る。
万年筆売り(一円位から十四五円)、友禅《ゆうぜん》のセリ売り(負けたところで一丈五尺一円二三十銭から三四円まで)、ガスの靴下やメリヤスのシャツの糶売《せりう》り(前同
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