復興が釣り寄せた人間が大多数を占めている。今東京に出れば、仕事が多くて、賃金が高くて、生活が安い。東京は一躍して新開地になった。新しい東京は今や新しい血と肉の力で復興さるべく飢えているのだ。行け行け……といったような気持ちで押し寄せた人々の大多数は、自動車や何かに乗らない。電車に乗るにきまっている。「だからこんなにこむのだ」と。成る程さもあろうかとうなずかれる。
 序《ついで》に説明しておくが、この頃の電車には早朝の割引時間のほかに、急行時間というのが出来た。これは遠距離から往来する腰弁や労働者の便利を図るために出来たものらしく、朝は六時前後から三時間内外、午後は三時頃から四時間位、すべての電車が急行時間という札をかける。小さな停留場には一切止まらず一気に走って、重立《おもだ》った停留所や乗り換え場所だけ拾って行く。或る意味から見れば、東京がそれだけ広くなったとも云えよう。
 震災後東京市内は、事務所といわず商店といわず、大抵はバラックで間に合わせて、主人を初め雇われ人は成るべく市外から通おうとする傾向がある。
 一方に、遠からず市区改正があって、どこが取り潰されるかわからぬという考えがあるために、大層なシッカリした建築が出来ない代りに、矢鱈《やたら》に東京の町は横へ広がる事になる。そこへ郊外生活に対する憧憬《あこがれ》とか、又は経済上、精神上なぞのいろんな原因が手伝って、東京市外の最近の発展は驚くばかりである。二里三里の遠方から来る労働者は珍らしくなくなって来た。
 こうして無暗《むやみ》にダダッ広くなった東京に、電車の急行が必要になったのは、当り前過ぎる位当り前の事である。
 この頃ならば午前の六時半から九時半まで、午後は三時半から七時半まで、合計七時間というものが東京中の電車を急行にする。小さな停留場には止まらないから、市内でこまかい用事を足すことはなかなか困難である。今に東京がもっと広くなったら、今一つ急行電車専用の線路を作らねばならぬかも知れぬ。否、現在でもその必要があり過ぎる位あるのであるが、遺憾ながら今の東京の道幅では不可能である。結局、小さな停留場を廃して、朝から晩まで急行にせねば追付《おっつ》かぬようになりそうな傾向が見える。そうなったら、今の乗り合い自動車は勿論の事、人力車が幅を利かし始めるような奇現象を呈するかも知らぬ。否、現在でも急行時間には人力車が繁昌するそうである。
 福岡あたりの電車は、小さな停留場を無闇《むやみ》に殖やして、お客を拾うことに腐心しているようであるが、東京では正反対だから面白い。

     一寸坊揃の女車掌

 東京は広くなるばかり。
 人間は殖《ふ》えるばかり。
 電車はこむばかり。
 この三ツの「ばかり」のために東京市民がどれ位神経過敏になるかは、実際に乗って見た人でなければわからぬ。
 前に云った電車の昇降口の生存競争、優勝劣敗から来る個人主義は車の中までも押し及ぼされて来ることは無論で、時と場合では、福岡あたりでは滅多に見られぬ、釣り皮の奪い合いまで行われるようになっている。
 世間は広いもので、たまには老人や女子供に席を立ってやる人もないではないが、ごく珍らしい方で、見付けたが最後、早く腰をかけなければすぐに失敬されてしまう。同時に、初めから腰なぞをかけようとは思わない覚悟の人も多いらしくて、却《かえ》って夕刊を読むために、電燈に近く陣取って動かない人なぞがチョイチョイ見うけられる。
 車掌はこれと反対に、益《ますます》冷静になって来たようである。これも一種の個人主義であろうが、車内が雑踏すればする程、彼等は落ち付き払って、只義理に声ばかりかけているのが多い。
「もっと前の方に行って下さいよ。降りる時にはチャンと卸《おろ》して上げるから。掴まって下さい。動きますから。オヤオヤ又停電か。どうも済みませんね。尤もこの電車ばかりではありませんがネ。一つコーヒーでも準備しますかね」
 といった調子で、まるでお客を馬鹿にしているが、それでもお客は笑いも怒りもしない。生活に疲れたあげく、こうした電車に押込まれて神経過敏になった人々は、イヤでも青黒く黙りこくった個人主義になって、只気もちばかりイライラするのをジッと我慢しているという姿になるのは止むを得ない事である。このような烈しい個人主義的の神経過敏たるべく、朝夕訓練されている東京人が、どんな性格に陥って行くか、どんな文化を作り得るか……これも想像に難くないであろう。
 電車の次には自動車である。
 東京市内に自動車が驚く程殖えた事、その流行や、ガソリン、運転手なぞの事は茲《ここ》に詳しく報道したから、此処には省いて、只種類と感じに就いて二三説明しておきたい。
 死体や罪人を別として、東京市内の人間を運ぶ自動車の種類がザッと四ツある。第一は自家用自動車で、震災後一番殖えたのはこの種類である。某自動車会社の専務取締の話に依ると、現在の東京人は「家よりも自動車」という傾向で、万一事ある場合はこれに乗って、という……矢張り地震と火事に脅かされた一種の個人主義のあらわれだそうな。いい自動車を一台置くのと、県知事を一人飼っておくのと同じ位の費用だというから、かなり相当の身分の人々にも、こうした貧民のソレと同様のみじめな個人主義が侵入して来たと見える。一寸《ちょっと》面白いような、悲惨なような、又は恐ろしいような気もする話である。
 次はタキシーだの何かいう貸自動車と辻待ち自動車で、福岡のメートル自動車と同様なものである。賃金は東京の真中から端までが平均三四円程度であろう。三人も乗れば人力車より安いが、これにはチップを遣る場合が多いからかなり高価《たか》いものに付く上に、行きと帰りの賃金が一定しない欠点がある。それから、辻待ちは殆ど東京市の目抜の通りにしか居ないので、ちょっとオックウな場合が多い。
 その次は私営の乗り合い自動車で、型のズッと大きいのが幅を利かしている。角の丸い四角型で、艸緑色《フーガスグリーン》に塗って、お尻の処にお化粧の広告を貼付けている。中には腰かけと釣皮があって、ギッシリ詰めたら二十人位乗れよう。賃金は一里三十銭位でもあろうか。電車を追い越し追い越し行くので、割り合い乗り手がある。
 運転手は電車のような制服を着た男で、車掌は福岡あたりの女学生と寸分違わぬ姿の若い女である。どっちが真似たのか知らぬが、前にガマ口の大きな位の鞄を下げていなければ、とても区別は出来ぬ。
 も一つ面白い事に、どれもこれも揃って一寸坊の姉さん位のばかりだから、どういうわけかと思ったら、これは車内の天井が低いので大きなのを採用しない結果だと、或る「通」が教えてくれた。初めは随分|別嬪《べっぴん》が居たが、切符を売る序《ついで》にほかの約束まで売るので、とても長続きがしない。今残っているのは極めて現実的な売れ残りばかりだと、序にその「通」が説明してくれた。「それはちと怪しい。万更《まんざら》でもないのが居るぜ」と云ったら、その方が怪しいと云う。何が怪しいと云ったら、怪しいと云うから怪しいんだと……何だかわからなくなった。

     半狂人を作る都会

 市営の乗合自動車で、俗に「円太郎」というのがある。話の種に是非一度乗らねばと思いつつ、ついに光栄に浴し得なかったから詳しい事は知らぬが、見かけばかりでなく内容までキタナイのは事実である。ガタ馬車を自動車にしたようなもので、運転手に帽子を持たない奴などが居るところは、市営とも思えぬ位である。その代り賃金はずっと安くて、速力は私営のとあまり変らない。車台の数も多く、盛にブーブーやっている。人も相当に乗っている。客種はズッと落ちる。
 あんまりこれでは不体裁な上に収支相償わぬからと、市で廃止しかけたら、運転手連がストライキ……ではない、その反対の運動をやってとうとう喰い止めた。
 そこで市でも考えて、今度は新しいハイカラなのを作るというので、その見本を市会議員が下検分したのが十月の上旬であったと記憶する。
 以上述べた私立乗合いと円太郎自動車は、東京市内の主として下町の目抜の通りにそれぞれ停留場を作って活動しているのであるが、東京市内はこんな自動車が引っ切りなしに飛び違う上に、無数の貸物自動車や公私用のサイドカー、オートバイ、自転車と往来を八重七合に流れているので、ちょっと往来を横切るにも、耳に飛び付くようなベルや警笛の音を喰らわせられる。
 云う迄もなく震災後には特別に繁華になったので、雨天の時なぞ、こんな自動車が警察|除《よ》け(これは自動車のタイヤの横に警察の命令で取り付けたハネ押えの異名で、何の役にも立たぬが多いから、運転手仲間でこう名付けている)をふりまわしながら、電車と一所《いっしょ》に泥煙を揚げて群衆に突貫して行く光景は、壮観? というも愚かである。
 こんな風だから、辻々に立っている交通巡査や電車の旗振りでも、生やさしい事ではつとまらない。見る間に電車や自動車が畳み重なって、盛にベルや笛を鳴らして催促をする有り様は、見たばかりでも神経衰弱の種である。
 ちょっと余談であるが、この交通巡査の身ぶりを見ていると、なかなか面白いものである。電車の旗振りの方は旗でさしまねくのだから、あまり眼には立たぬが、交通巡査は大抵白い手袋をはめて、手ぶらで交通を支配するのだから、その身体《からだ》付きや手よう[#「よう」に傍点]、眼よう[#「よう」に傍点]に自然と個性があらわれていて、小学生なぞが遠くから真似しているのをよく見受ける。
「ホラ、お出《いで》お出だ。今度はフラフラダンス。失敬失敬。体操だ体操だ。オイチニオイチニ。又かわるよ。赤旗になったから……」
 なぞとやっている。驚いたのは、女学生がこんな事によく気をつけている事で、山の手線電車の待ち合いで大勢寄って、真似し合って笑っているのを見た。
「須田町のはこうよ……駿河台下のはこうよ……」
 といった風で、名前ばかりでも十二三聴いた。その中で記者のノートに残っているのは、
 まねき猫、お湯|埋《うず》め、蠅追い、スウェーデン式、鰌《どじょう》すくい、灰掻き、壁塗り
 なぞ……女学生と小学生と名前のつけ方が違っているところが面白い。
 こんな風に電車の中ばかりでなく、普通の往来まで緊張して来たことは非常なもので、殊にその音響と来たらちょっと形容が出来ない。東京の悪道路の事は前に書いたが、それだけに自動車や電車のわるくなり方も甚だしいと見えて、さなきだに八釜《やかま》しい往来が一層烈しくドヨメイて、肩を並べながら話しも出来ない有り様である。
 その中を只専心一途に自分の方向を守って、眼を光らし、耳を澄まして行かねばならぬのが東京人の運命である。そのためにその神経は益《ますます》冴え、その気持ちには余裕が無くなって疲れ易く、興奮し易く、泣き易く、怒り易くなる運命に陥ることは云う迄もない。
 以上述べたところで、東京の新しい町と交通機関が与える感じは、あらかた説明し得た事と信ずる。
 こうしたバラックの安ッポイ強烈な神経にあおられ、交通機関の物凄い雑踏に押しもまれた東京人の神経が、如何にデリケートなセンチメンタルさにまで高潮されているかは、想像に難くないであろう。
 警察で自由恋愛論をやる女学生……今の夫を嫌って前の夫の名を呼びながら往来を走る女……それを間男と間違えて追っかける男……世を厭《いと》うて穴の中に住む男……母親にたった一度叱られただけで自殺した女生徒……五円の金を返せないので自殺した妻……逃げた犬を探して公園のベンチに寝る男……なぞいう、狂人に近いあわれな人間の事がこの頃の新聞に多く見受けるようになったのは、そうした東京人の心理状態を強く裏書しているのではあるまいか。
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▲備考[#「備考」に傍点] この傾向は紐育《ニューヨーク》のような大都会になると一層烈しいので、同市の自殺原因の統計の中には、朝牛乳瓶が割れたためとか、ヘアピンをなくしたためとか、又は学校に遅刻したためとかいうような物
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