ると、
「まことにお気の毒様」
 と心からあやまられて、逃げるように表へ出てホッとするような事が珍らしくない。
 浅草ではそんな気兼ねは向うにもこちらにも無い。お金はこちらのもの、品物は向うのもので、あとは「もの」と「ねだん」の相談ずくで済む。しかも売り買いの中心は要するにそこ[#「そこ」に傍点]だけである。そこ[#「そこ」に傍点]を最も露骨に大道に表現しているから、浅草の店は現代式と云い得るわけである。追々《おいおい》と世の中が世智辛《せちがら》くなって来たら、こうした正札一点張りの無言の商売が大流行《おおはやり》をするようになりはすまいか。
 こう考えて来ると、浅草の観音様はエライものである。この無言と正札一点張りの仲見世の商売振りに、今一層輪をかけた商法《あきない》の名人である。第一正札も無ければ、「毎度有り難う」も云わぬ。御利益のねだん[#「ねだん」に傍点]は向うで勝手にきめて、ドシドシ賽銭《さいせん》箱に放り込んで行くのだから、お手に入ったもの。しかも自分ばかりでなく、まわりに大黒様だの何だの彼《か》だのと、数十の神仏に元手要らずのデパートメントストアを出させて、何百年間大繁
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