談所開始当時(大正十二年十月)は流石《さすが》に人探しの相談が多かった。これと一所《いっしょ》に家主や地主に対する苦情も非常に夥《おびただ》しく持ち込まれた。すなわち震災後二三ヶ月の間、東京市中の家や人が別々の意味で宙に迷いつつあった事を裏書している。
その中《うち》に押し詰まって来ると、次第に人探しの申込みが減って来た。代りに対家主の苦情が殖《ふ》えると同時に、金の相談や証文の鑑定なぞが加わって来た。
「資本がほしいですが、無抵当で薄利で貸してもらう方法は」
「この金を預けるたしかな銀行は」
「これは焼け残った祖父の時代の証文ですが」
なぞいうので、東京市内が次第に落ち付いて来た程度を説明している。
このような状態が大正十三年度の三四月頃まで続いた。
大正十三年度の三四月頃は、東京中の人気があらゆる意味でグラリと引っくり返った時機と見られているが、警視庁の人事相談所にもそうした影響が現われた。
第一に大工や左官、その他の職人なぞいう労働者の賃金不払問題が盛に流れ込み始めた。
震災直後の節季まではこんな現象は見られなかった。東京の復興を目がけて地方から押し寄せた連中は、皆引っぱり凧《だこ》にされていたのである。只釘を打って鋸《のこぎり》を使えれば大工で通る。藁《わら》さえ刻めば左官で通る。賃金が四五円から五六円という景気であった。
その中《うち》に大正十三年の春になった。
東京市中は次第に落ち付いて、ソロソロ日本中の不景気の影響を受け始めた。同時に今まで復興の労働者を歓迎していた親方や請負師連は、逆に賃金の不払を始めた。
もともと震災直後の東京に押寄せて来た連中は田舎者にきまっているので、欺され易く、馬鹿にされ易い。そこをつけ込んで使うだけ使って突放して終《しま》うので、金は取れず、食費は嵩《かさ》む、仕事には有り付けぬ、というのが続々と出来る。そこへ春先の時候がよくなるに連れて、田舎の不景気にアブレた連中、又は前の年の東京の景気を聞き伝えた面々が、何という事なしに押上って来たので、いよいよ不景気の上塗《うわぬり》となった。
東京は今日までもこうした職人の供給過剰となっている。
ひと頃、いい加減な大工や左官が五円の六円のという勢であったのが、今では立派な腕の大工で四円五十銭、左官が三円以下という相場で居据わっている。それ以下のいい加減な職人が相
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