のであると感じた。
さなきだに東京の人間は、江戸の昔から家に対する執着心が薄かった。
「一人もの店賃《たなちん》程は内に居ず」
「煤掃《すすは》きも面倒臭いと移転する」
で、家に対する執着が誠に少ないところへ、大地震と大火事で肝の潰れる程の教訓を受けたのだからたまらない。その後も引き続きグラグラと来るたんびに、何でも身に付く以外のものは無くなっても構わないようにという気持ちになって来た。
一方、震災後地方から押し上った連中も、早速この風《ふう》にカブレてしまった。コレという家財も無い身の軽い生活がこの道楽に陥り易い事は云う迄もない。況《いわ》んや「風采即信用」という風俗の格言が滔々として世を蔽いつつあるに於てをやである。
つまり、こうしておつとめ服の身のまわりにさえ金をかけておけば、借金取りでも滅多に寄り付けぬ。質に置くにも都合がいい。そうして素破《すわ》という場合にはいつ何時でも、手と身とツンツンで飛出しさえすればこっちのものになるというわけである。
支那人が股倉に金を貯め、駱駝が胃袋に水を溜め、猿が頬ペタに袋を下げ、牛が胃袋を四つ持っているところを、日本人だけに着物で気前を見せているのであろう。
進化か退化か知らないが、東京人がこうまで魘《おび》えてちぢこまっているかと思うと情なくもある。東京の新聞に大きな標題《みだし》を付けた地震の学説がこの頃まで出ているところを見ると、こんな知識階級のビクビク加減は地方人の想像以上であるらしい。
着物道楽……独身主義の延長……という、虚栄に囚われた女にでもありそうな傾向が男の中に流行している……女は無論の事……というこの二ツが東京にどれだけの独身生活者を殖やしているか、そうしてそれがどれ位まで東京の風俗を乱しているかは、話の筋をそれるから後まわしにする。
扨《さて》……こんな着物道楽の連中がいよいよ身のまわりを充実さして、新しい「アアラ吾が君」と同棲したとなると、今度は文化生活が理想となって来る。
つまり着物道楽は独身者《ひとりもの》の心理表現で、文化生活は夫婦者の理想の発表とでも定義しようか。
文化とは「ブル化」?
東京人の憧憬する文化生活を研究するには、先ず「文化」という言葉の定義からきめてかからねばならぬ。
文化という言葉はバラックと同様あんまり有触れ過ぎて、どんな事を意味するのか訳
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