人力車が繁昌するそうである。
 福岡あたりの電車は、小さな停留場を無闇《むやみ》に殖やして、お客を拾うことに腐心しているようであるが、東京では正反対だから面白い。

     一寸坊揃の女車掌

 東京は広くなるばかり。
 人間は殖《ふ》えるばかり。
 電車はこむばかり。
 この三ツの「ばかり」のために東京市民がどれ位神経過敏になるかは、実際に乗って見た人でなければわからぬ。
 前に云った電車の昇降口の生存競争、優勝劣敗から来る個人主義は車の中までも押し及ぼされて来ることは無論で、時と場合では、福岡あたりでは滅多に見られぬ、釣り皮の奪い合いまで行われるようになっている。
 世間は広いもので、たまには老人や女子供に席を立ってやる人もないではないが、ごく珍らしい方で、見付けたが最後、早く腰をかけなければすぐに失敬されてしまう。同時に、初めから腰なぞをかけようとは思わない覚悟の人も多いらしくて、却《かえ》って夕刊を読むために、電燈に近く陣取って動かない人なぞがチョイチョイ見うけられる。
 車掌はこれと反対に、益《ますます》冷静になって来たようである。これも一種の個人主義であろうが、車内が雑踏すればする程、彼等は落ち付き払って、只義理に声ばかりかけているのが多い。
「もっと前の方に行って下さいよ。降りる時にはチャンと卸《おろ》して上げるから。掴まって下さい。動きますから。オヤオヤ又停電か。どうも済みませんね。尤もこの電車ばかりではありませんがネ。一つコーヒーでも準備しますかね」
 といった調子で、まるでお客を馬鹿にしているが、それでもお客は笑いも怒りもしない。生活に疲れたあげく、こうした電車に押込まれて神経過敏になった人々は、イヤでも青黒く黙りこくった個人主義になって、只気もちばかりイライラするのをジッと我慢しているという姿になるのは止むを得ない事である。このような烈しい個人主義的の神経過敏たるべく、朝夕訓練されている東京人が、どんな性格に陥って行くか、どんな文化を作り得るか……これも想像に難くないであろう。
 電車の次には自動車である。
 東京市内に自動車が驚く程殖えた事、その流行や、ガソリン、運転手なぞの事は茲《ここ》に詳しく報道したから、此処には省いて、只種類と感じに就いて二三説明しておきたい。
 死体や罪人を別として、東京市内の人間を運ぶ自動車の種類がザッと四ツある
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