がない……「河向う」という言葉と「絶望」という言葉とは、場合によって同じような意味に使われている位であった。極端に意味を強めて云えば、「河向う」は「生きた江戸ッ子の墓場」であった。
然るに昨年の九月一日夜の大火は、そこを最も猛烈に焼き立てて、あれだけの死骸の山を築いた。その死骸の臭《におい》が今も残っているとは、何という深刻な自然の皮肉であろう。
以上述べた処は、東京の中心の通りから、被服廠あたりまでのバラック振りである。まだこの外《ほか》に、いろんな特徴を持ったバラックが、東京市の内外一面に拡がっていることは云うまでもないが、しかしこれでバラック以上の鉄筋建築から、バラック以下の避難小屋まで見物したわけで、東京のバラックを批評するには充分と思われるから、ほかは略する。
只、東京の内外を通じてあれだけ猛烈な勢で建てられたバラックが、目下の不景気で増加の度をゆるめている事を付記しておく。
日本人の頭の悲哀
一口にバラックと云っても、その中にいろんな階級がある事は前に述べた通りであるが、その各階級の中にも又いろんな変化があって、なかなか面白い。一々見て行くと、何の事はない、人間の智恵や工夫の展覧会である。思い切ったものや、セツナイもの、又は御尤も至極なのや、呆れ返らせられるものなぞが、それからそれへと果てしもない。
そのどれもこれもが、申し合わせたように一致しているのは、「何でも驚かしてやろう」という気分である。
尤もこれは表通りの競争の烈しい町並に多く見受けるのであるが、裏通りでもこの気分は多少に拘らず流れている。
中にはコリント式やイオニヤ式、ドリヤ式なぞいう恐ろしく気取ったのもあるが、しかしその生地がセメント塗りで恰好だけ作ってあるので、却《かえっ》てつまらなく見える。
それよりもルネッサンス式の変化したもの、ゴシック式を今一層シツッコクしたものなぞが光っている。その中でも又一番活躍して眼を惹くのは、セセッション式以後の新様式を用いたものである。
未来派式、印象派式はもとより、何という式かわからぬが、往来に面した窓を様々の形にして色|硝子《ガラス》と鏡をチャンポンにはめ込んだり、要りもしないバルコニを突出して白ペンキ塗りの格子を張りまわしたり、外側の壁をわざと板張りにして色ペンキで表現派模様を塗りコクッタリ、そのほか、飾り煉瓦や色の
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