や彼女の脳裡《のうり》から次第次第に離れていった。万吉郎を家から抜けださせないこと、そして他の女に奪われないこと、その二つのことがらを常々心にかけて苦労のたけをつくしていた。
 だから、たまたま万吉郎が外出するときなど、他人には到底みせられないような大騒ぎが起った。ここには明細にかきかねるが、とにかくヒルミ夫人は万吉郎の身体に蛭《ひる》のように吸いついて、容易に離れようともしなかったのである。万吉郎はちょっと髪床《とこや》にゆくのだというのに、このばかばかしい騒ぎであった。
 そんなことが、万吉郎の心をヒルミ夫人からずんずん放していった。それはそうなるのが当然すぎるほど当然のことだったけれどまたたしかに人間の情けの世界の悲劇でもあった。
「あなた、よくまああたしのところへ帰ってきて下すって」
 夫が帰ってくると、ヒルミ夫人はひと目も憚《はばか》らず、潜々《さめざめ》と涙をながして、逞《たくま》しき夫の胸にすがりつくのであった。
 そうしたヒルミ夫人の貞節が、万吉郎に響いたのであろうか、ヒルミ夫人の観察によればこの頃夫の万吉郎は、すっかり人が違ったようにすべての行為に関し純真さと熱情とを
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