ンの離宮(今はホテル)に劣らない立派な建物(皆ホテル)が數多く竝んで、波打際に近いプロムナードには海水浴着の女や男が花やかに歩きまはつてゐた。イギリスの避暑客が多いのださうだ。その間に交つて、車を捨てて少し歩いて見ると、ここはまた別天地で、戰爭の實感などは、少しも起らなかつた。
 それから日の落ちかかつた海岸の岩山の間を通つて、アンダイエの村にさしかかつた時は、もう暗くなつてゐたので、私は『お菊さん』の作者の舊宅を訪問することを斷念した。サン・ヂャン・ド・リュズを出て以來、氣がついて見ると、どこの村にも男の影が少いやうに思はれた。文房具屋のかみさん[#「かみさん」に傍点]とバーの前の年とつた女の影像がサン・セバスティアンに歸りつくまで私のあたまの中にあつた。

       二 ※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]忙

 今までは何となく戰爭にはならないですむのではないかといふやうな氣がしてゐたのが、早晩、戰爭は避けられないもののやうに思へるやうになつた。
 それが私の國境を越えて持ち歸つた實感だつた。その實感はサン・セバスティアンの宿の空氣の中にもひろがつた。私たちは豫定より少し早めにパリまで引き揚げることにしようかと話し合つた。私たちの荷物はパリとロンドンに分けて預けてあつた。戰爭になつて交通が混亂状態に陷れば、持ち歸れなくなるかも知れない。それはあきらめるとしても、私たち自身の身體の始末にもこまることにならないとは限らない。イギリスへは多分歸れないだらうし、フランスへは歸れるとしても、日本の船が來られるかどうかわからない。イタリアが戰爭に參加しなければ、ヂェノアかナポリからアメリカへ渡るといふ方法もあるだらうが、イタリアが中立を守るかどうかもわからない。……
 その時はエスパーニャからポルトガルへ出て、リスボアで日本の船をつかまへるといふ手がある。と、矢野公使は注意してくれた。實際、N・Y・Kラインの船が時時思ひ出したやうにリスボアに寄港することがあるのは私たちも知つてゐた。だから急ぐことはない。せつかく此處まで來てるのだから、もう少し腰を落ちつけて、形勢を觀望しながら見物をつづけてはどうだらう。さういつてくれるのだつた。(私たちは樂しみにしてゐたマドリィもトレドーも、セヴィーヤもグラナダもまだ見てないのだつた。)それに息子に逢ふためなら、パリまで歸る必要はない。息子を此處へ呼んで一緒に見物につれて行つたらどんなものだらう。さうもいつてくれるのだつた。
 さういはれると、私たちとしては、エスパーニャまで來てゐてマドリィもトレドーも知らないで去ることはいかにも殘念だから、(「あなたはエヂプトへ行つてピラミッドを見ないで歸つたのですか?」といふ諺もあることだし)、思ひ切つてもう少しねばらうかといふ氣もあつた。
 この二つの氣持の間を私たちは行きつ戻りつしてゐた。
 それを見てとつて、一晩考へてくれたと見えて、次の朝になると、公使は突然にいひだした。これから二三泊の豫定で一つ出かけることにしようではないかと。私たちは二人だけでマドリィからトレドーまででも行つて見ようかと話し合つてゐたのだつたが、公使は自分が車で案内してやるといつてきかなかつた。
 その日(二十八日)の午後一時、私たちはサン・セバスティアンを出て、四時半にブルゴスを通り、一望涯もない赤土の曠野を横斷して、日歿にガダラマ山脈の東の肩を越し、夜マドリィに着いた。サン・セバスティアンからブルゴスまで二四〇キロ、ブルゴスからマドリィまで二四〇キロ、合計四八〇キロ。その間、内亂の戰跡を見たり、古い寺院を見たりして歩いた。
 翌日(二十九日)はマドリィとトレドーを見物して、(マドリィからトレドーまで七〇キロ)、古い建築と美術と新しい戰跡に目を見張り、再びガダラマ山脈の西の肩を越してセゴヴィアに出て、そこで日が暮れて曠野の夜道をヴァヤドリィまで辿りついて一泊。此の行程約四〇〇キロ。
 その翌日(三十日)はヴァヤドリィを見物して、ブルゴスに出て、もう一度ブルゴスを見直し、エスパーニャのボルドーといはれるログローニョからエステヤを通り、アルトー・デ・リサラガの壯大な景觀を賞翫して、夕方サン・セバスティアンに歸つた。
 ヴィラ「ラ・クンブレ」に歸つても、その晩はまだ車に搖られてるやうな氣持だつた。茫漠たる曠野と、怪奇を極めた岩山と、ゴティクとアラビクのまざり合つた異樣な樣式の建物と、エル・グレコとゴヤとヴェラスケスの繪畫と、女・男の美しい顏と粗末な風裝と、内亂の悲慘を物語る破壞と焦土と、塹壕とトーチカと、彈丸の缺けらと鐵條網と、血痕と墳墓と、……そんなものが二重映し三重映しになつて視覺から離れなかつた。さうして、それ等のものが車の動搖と同じリズムでいつまでも目の前で搖れ動いてゐた、さうして、その搖れ動きの中にしばしばまざり合つて出て來るものは、ヒトラー、スターリン、ムッソリーニ、チェインバレン、ダラディエなどの影像だつた。それから、フランコ、モーラなどの影像だつた。……
 エスパーニャでは今年の三月にやつと内亂が收まつたばかりである。國民は疲れ切つて戰爭を咀つてゐる。しかるに、中歐ではまた戰爭が始まらうとしてゐる。二十年前に今のエスパーニャの如く疲れ切つて戰爭を咀つたその國土の上で。
 私たちは車の中でもしばしばそのことを問題にして話し合つた。マドリィでも、トレドーでも、ヴァヤドリィでも、ブルゴスでも、新聞は出るごとに買つて目を通すことを怠らなかつた。ポーランドの事態は日に日に急迫を傳へられた。さうして、ヘンダーソンはいつも根氣よく動き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐた。その状態は私たちが旅に出た頃と表面は同じだつた。ただ急迫の度合がじりじりと徐徐につのつて行くのが、却つて氣味わるさを感じさせるのであつた。
 サン・セバスティアンに歸つてから手に入つたニューズに據ると、ドイツの動員はすでに五百萬に達したといふことだつた。私はすぐフランスとイギリスの動員のことを考へた。それはまだ公表されてなかつたが、事實に於いて動員されてないとは思へなかつた。サン・ヂャン・ド・リュズの文房具屋のかみさん[#「かみさん」に傍点]とバーの前に立つてゐた年寄の女の顏がまた私の目の前に現れた。
 その晩、I君に公使館の廊下で逢つた。文房具屋のかみさん[#「かみさん」に傍点]に昨日逢つたら、三番目の末の息子も召集されて泣いてゐたといふことだつた。
 ――今にフランスでは男がなくなりますよ。
 I君はさう附け加へていつた。
 ――フランスだけぢやないでせう。
と私はいつた。エスパーニャでは、戰後、女二十人に對して男一人の割合になつてることを私は思ひ出した。
 私たちは翌日パリへ立つことに決心した。その晩はよく眠れなかつた。

       三 ダックス

 次の日(三十一日)私たちは朝早く起きて出發の用意をした。用意とはいつても、エスパーニャにはスーツ・ケイスを二つ持つて來てるだけなので、わけはなかつた。
 公使の心づくしで冷酒といりこ[#「いりこ」に傍点]で門出を祝つてもらつた。動亂の巷へ見送られるといふ感懷が強かつた。公使は途中まで――ボルドーか、せめてダックスまで――見送つてやるといつて、車の用意がしてあつた。
 住み馴れたサン・セバスティアンの山の上のヴィラ「ラ・クンブレ」を出たのは八時ごろだつた。バルコンの手摺にからみついた赤い薔薇の花も、アラビア風の拱門から垂れた蔓草の白い花も、何となく見返らずにはゐられなかつた。
 五日前の午後不安な氣持で通つた道を今日は朝の光の中に見ながら、いつしか國境を越えて、サン・ヂャン・ド・リュズもビアリッツも左の方に眺め、バイヨンヌの町を通り過ぎると、町はづれの木立に取り圍まれた草原の上で、一箇中隊もあらうかと思はれる兵隊が、極めて基本的な訓練をさせられてゐた。あの中にサン・ヂャン・ド・リュズの文房具屋の息子も交つてるのではないかと思はれた。事によると、兄弟三人とも。
 その邊から先は道が美しい森林の中を拔けるやうになつてゐたが、薄霧が下りて來て、兩側の竝木の枝がまぢり合つてトンネルのやうになつた行手の方は、ぼやけて見えなくなつて來た。それから先は、あと三〇キロも行くと國道第十號と呼ばれてる大きな道路と直角にぶつつかり、それを左へ折れて北へまつすぐに走れば、ボルドーに達する近道だつた。ボルドーまでそこから約二〇〇キロ、右も左も赤松の森林がつづいて、氣持のよいドライヴ・ウェイだつた。私たちはエスパーニャへ行つた時、ボルドーで汽車を捨てて、途中で日は暮れたけれども、夕月のおぼろな中をその森林を通つたので、おほよその地理はわかつてゐた。その時、森林の中で車に故障ができて、ショファが直してゐる間、前からも後からも車やトラックが引つきりなしに駈け過ぎたものだつた。
 しかるに今日はどうしたのか? だんだんとその國道第十號に近づいて行くのに、車は一臺も通らない。バイヨンヌを過ぎてからトラックを二三臺見たきりである。同乘の矢野氏にそのことを話すと、車は皆徴發されたのかも知れないといふことだつた。シンとした森の中で、今ごろは混雜してるかも知れないパリの空がいかにも遠く感じられた。
 霧は刻刻に濃くなり、一キロ先は殆んど見えないほどになつた。車はスピードが出せなくなつたので、ボルドーまで行つて急行に乘り後れてはつまらないから、近くのダックスで別れようといふことになつた。
 ダックスは、國道第十號と接合したところを右へ曲つて、しばらくまだ森林の中を駈けらせると、すぐ向うに現れた。
 ダックスは古い町で、ケーサルの時代にはゴールの土地(ラインとピレネーの間)の最西部の主都であり、ゴールのアクウィタニ(タルベリ)族が割據してゐたといふので、その時代の城壁が今も遺つてるといふことを、私は車の中で案内記によつて知つた。普通ならば車を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して一見しないではすまさないのだが、十時三十五分のパリ行急行を取りはづしてはならないので、十三世紀の寺院と共にあきらめて、すぐ停車場へ直行した。
 停車場でパリへ電報を打たうとしたが、郵便局に行かなければ打てないといふので、町まで行くことになつた。ダックスはフランスで數少い温泉場の一つで、故杉村大使も馬から落ちて怪我をした時ここで療養してゐたと聞いてゐた。私は昨年の冬、ローマからロンドンへ行く途中、パリをおとづれて官舍に杉村氏を見舞つた時のことを思ひ出した。その時杉村氏はすぐれない顏色をしてゐたが、それでも元氣よくヨーロッパの形勢を論じて病人とは思へなかつたが、その杉村氏も今は故人となつた。……
 ダックスの町の入口にはアドゥの川が流れてゐて、長い石の橋が架かつてゐる。そこから見ると、左の方に深さ二十尺といはれる温泉の池があつて、白い煙が高く立ち昇つてゐた。郵便局に行くと、パリ宛の電報は(フランス人でも)警察の證明を持つて來たいと打てないことになつたといふ。事ごとに形勢の切迫を感じさせられる。しかし警察へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてる暇はないので、よく事惰を説明し、公使の顏で發信してもらへることになつた。
 停車場に戻つて來ると、やがて列車が入つて來た。見送つてくれた公使と別れを惜んで私たちは車中の人となつた。
 今まではエスパーニャの旅行の延長のやうなもので、私の心像にはエスパーニャの事物がいつぱい充滿してゐた。嶮しい白い山、翡翠の空、羊の切身のやうな土の色、灰色の都市、田舍の赤屋根、寺院の尖塔、サボテンの舞踏、橄欖の群落、エル・グレコの青い繪、ゴヤの黒い繪、さういつたものが限りなく記憶のインデックス・ケイスに詰まつてゐて、何を見てもそれ等のものが比較のために顏をのぞけるのだつたが、さうしてそれが懷かしまれるのだつたが、不思議にも、汽車に乘つてしまふと、そんなものはすべてピレネーの連山と共に遙かの後《うしろ》の方へ後《あと》じさりして、行手のパリの空のみがしきりに氣にな
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