ルドーへ避難して來る人たちによつて傳へられた。それは決して戰爭その物の情報ではなく、戰爭の描きだす波紋の或る一方面に限られた現象に過ぎないものではあつたけれども。

       一〇 風聲鶴唳

 四日にパリを出た人の話。――
 パリの空は無數の阻塞氣球で防護されてゐる。パリジャンはそれをソーセージと呼んでるさうだ。形が似てるからだ。(ロンドンの空もおびただしい阻塞氣球の城壁が築かれたといふ。)
 燈火管制が嚴重になつた。眞夜中に見ると、美しい星空の下にパリは廢墟のやうに横たはつてるのが凄いやうだといふ。
 最終の避難列車は六日にパリを出る。それに乘りおくれるとボルドーへの交通は杜絶するかも知れない。と、これは日本人間の噂だつた。
 列車は非常な混亂で、ケー・ドルセーの停車場では卒倒した女が何人もあつた。尋常なことでは列車に乘れないので、窓から攀ぢ登る者もあつた。持つて來た荷物をプラットフォームに棄ててしまつた者も少くなかつた。――そんな話を聞くと、またしても大震災の時の混亂を思ひ出す。フランス人も修養が足りないやうに思はれた。
 英國汽船アシニア號がドイツの潛水艦に撃沈された。乘客の大多數は、しかし、救助された。
 五日にパリを出た人の話。――
 午前三時半頃、最初の警笛《アレルト》が市民の眠を驚かした。皆ガス・マスクの袋を提げ、懷中電燈を持つて、地下窖《アブリ》へ逃げ込んだ。アレルトはどんな音かと開くと、非常に低い調子で、非常に鈍い高低で、とても陰氣で、聞いただけでも陰慘な氣持になる。それにアブリの中は暗くて臭くて、あんな所に何時間も閉ぢ込められたら氣がちがつてしまふ。と、その人は眉をしかめて話した。
 それで飛行機は本統に來たのかと聞くと、初めは敵の空襲だとばかり思つてゐたし、みんなもさういつてゐたのだが、よくわからなかつた。ドイツの偵察機が國境を越えたぐらゐの事かも知れない。或ひは豫行演習だつたのかも知れない。いづれにしても不愉快なものだ。といつてゐた。
 ロンドンでは四日の未明に最初のサイレンが市民の夢を驚かしたといふことだ。
 イギリスの飛行機がキールの軍港を爆撃したといふ報道がフランスの新聞で傳へられた。
 六日にパリを出た人の話。――
 此の日も朝の三時過にアレルトがパリの空に鳴り響いた。また豫行演習だつたのだらうといふと、高射砲の音がさかんに聞こ
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