。熔礦爐の火だ! 地獄の火だ! 人殺しの道具をこさへる火だ! 戰爭を恐れて逃げ出した人間どもを威《をど》し立てる火だ!
――あれはどこです?
――ボルドーです。
やつとボルドーに辿りついたのだ。ボルドーにあんな火が燃えてることを私は前に二度までも通つて知らなかつた。その火は、どこまで行つても同じ距離で、私たちに附いてまはつた。時時、森が、人家が、それを隱しながら。列車が旋囘を始めだしたのだ。どうしてもさうとしか思へなかつた。
いきなり大きな黒い橋が私たちの前に來た。なぜか、列車は停まつてしまつた。川はガロンヌで、その橋を渡ればボルドーの町だといふことを私は知つてゐたが、列車は地獄の火の方へ戻りたいのか、停まつたきりで、いつまでたつても動きださうとしなかつた。人人は誰も不平をこぼす者もなければ、泣きごとをいふ者もなかつた。時と所を超越した此の氣まぐれな火龍の脊中に自分の運命をあきらめて委せきつたやうな顏をして默りこくつてゐた。私とても、はたから見たらさうとしか見えなかつたにちがひない。
何十分かの後、列車がまた動きだして、ゴトゴトと鐵橋を渡つて、サン・ヂャンの停車場に滑り込んでも、別にうれしくもなんともなくなつてゐた。人間的な感情とか思慮とかを働かすべく私はあまりに疲れきつてゐた。
プラットフォームの上に避難列車の吐き出した人間の數は非常な數だつた。そこには高い柱の頂上から降りそそぐ淡紫色の夢のやうな電燈の光が此の世のものとも思へないやうな影を落して無數の亡者どもの蠢《うごめ》きを描き出してゐたが、ふと氣がつくと、私自身もその亡者どもの群に交り、重い二つのスーツ・ケイスを提げて立つてゐた。
どこへ行くのか? どうすればよいのか? なんにも知らないで、ただふらふらと歩み出してゐた。……
たしかに一箇の夢遊病者の影像だつたに相違ない。
八 邂逅
ボルドーのサン・ヂャン停車場のプラットフォームは、階段を下りて、地下道を通つて、また階段を上つて改札口に出るやうにできてゐる。長さにしても大した距離ではないのだが、その晩は非常に長く感じた。私は二つのスーツ・ケイスを兩手に一つづつ提げて――それも大した重さではないのだが――十メートルも行つては休み休みしなければならなかつた。私だけではない。私の二三歩先を行つてる二人の大の男も私と同じくらゐ歩いて
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