要はない。息子を此處へ呼んで一緒に見物につれて行つたらどんなものだらう。さうもいつてくれるのだつた。
さういはれると、私たちとしては、エスパーニャまで來てゐてマドリィもトレドーも知らないで去ることはいかにも殘念だから、(「あなたはエヂプトへ行つてピラミッドを見ないで歸つたのですか?」といふ諺もあることだし)、思ひ切つてもう少しねばらうかといふ氣もあつた。
この二つの氣持の間を私たちは行きつ戻りつしてゐた。
それを見てとつて、一晩考へてくれたと見えて、次の朝になると、公使は突然にいひだした。これから二三泊の豫定で一つ出かけることにしようではないかと。私たちは二人だけでマドリィからトレドーまででも行つて見ようかと話し合つてゐたのだつたが、公使は自分が車で案内してやるといつてきかなかつた。
その日(二十八日)の午後一時、私たちはサン・セバスティアンを出て、四時半にブルゴスを通り、一望涯もない赤土の曠野を横斷して、日歿にガダラマ山脈の東の肩を越し、夜マドリィに着いた。サン・セバスティアンからブルゴスまで二四〇キロ、ブルゴスからマドリィまで二四〇キロ、合計四八〇キロ。その間、内亂の戰跡を見たり、古い寺院を見たりして歩いた。
翌日(二十九日)はマドリィとトレドーを見物して、(マドリィからトレドーまで七〇キロ)、古い建築と美術と新しい戰跡に目を見張り、再びガダラマ山脈の西の肩を越してセゴヴィアに出て、そこで日が暮れて曠野の夜道をヴァヤドリィまで辿りついて一泊。此の行程約四〇〇キロ。
その翌日(三十日)はヴァヤドリィを見物して、ブルゴスに出て、もう一度ブルゴスを見直し、エスパーニャのボルドーといはれるログローニョからエステヤを通り、アルトー・デ・リサラガの壯大な景觀を賞翫して、夕方サン・セバスティアンに歸つた。
ヴィラ「ラ・クンブレ」に歸つても、その晩はまだ車に搖られてるやうな氣持だつた。茫漠たる曠野と、怪奇を極めた岩山と、ゴティクとアラビクのまざり合つた異樣な樣式の建物と、エル・グレコとゴヤとヴェラスケスの繪畫と、女・男の美しい顏と粗末な風裝と、内亂の悲慘を物語る破壞と焦土と、塹壕とトーチカと、彈丸の缺けらと鐵條網と、血痕と墳墓と、……そんなものが二重映し三重映しになつて視覺から離れなかつた。さうして、それ等のものが車の動搖と同じリズムでいつまでも目の前で搖れ動いて
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