吹雪のユンクフラウ
野上豊一郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)空劃線《スカイライン》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]
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    一

 アルプス連峰の容姿の目ざめるような美しさにいきなり打たれたのは、ベルンに着いてベルヴュー・パラース(ホテル)の二階の部屋に通された瞬間だった。南東を受けた大きな窓一ぱいに遠く雪を戴いた山々が一列に並んで、時刻はもう十九時(午後七時)を過ぎているのに日中の光のまだ残ってる碧空に、くっきりと鮮やかな空劃線《スカイライン》を描き出してる美しさ! 尖峰の数は目分量で三十から四十もあろうか? 鋭くとんがったり、おんもりと円味を見せたり、そぎ落されたようなのや、曲りくねったのや、威儀を正したものもあり、無造作に坐ったのもあり、孤立したもの、寄り集まったもの、思い思い勝手な方向を向いて、実際は比較的近いのも比較的遠いのもあるらしいが、距離のために一列になって見え、全体として、いかにも清らかに鮮やかに花やかに、且つ、消えたばかりの夕映の名残を浴びて皺襞の陰影が甚だ繊細な微妙なものでさえあった。私は今までこれほど豪華な山嶽の駢列を見たことがなかった。オリュンプスの神々女神たちの行列を作ってるところを思いもかけずかいま見たような驚きと喜びだった。
 それに私の立ってるところと連峰の間には、殆んど地上で想像される限りの美しい通観《ヴィスタ》があった。赤味の勝った絨毯と壁紙で飾られた部屋のすぐ下には碧玉を溶かしたようなアーレの流れがあり、対岸はよく整頓された並木に縁どられて、色さまざまの家屋の列が幅狭くつづき、その先は深い樹林の帯で、もう春の新鮮な衣装をまとった丘が背景をなして、そこから連峰までの間にはあまり高くない無数の山々がまだ冬の姿のままで起伏し、一番先に白皚々のすばらしい屏風が青空を仕切ってるのだから、それ等を通観した大きな画の前に、全く、しばらくはただ茫然と見とれてるだけで、ほかになんにも考える余裕はなかった。
 その景観にやや目慣れてから、まず思い浮かんだことは、一体これはアルプスの多くの山系の中でどれに属する部分だろうかということだった。しかし、すぐ気がついて見ると、ベルンに来てるのだから、そうして、ベルンから南東を展望してるのだから、いうまでもなくこれは「ベルンのアルプス」と呼ばれる中央山系でなければならない。そうだとすると、ユンクフラウ(乙女)があの連峰の中に交ってる筈だ。私たちがこれから訪ねて行って、明後日はそれに登ろうと計画してるユンクフラウが。
 こんなに早くユンクフラウに出逢おうとは思わなかった。つい一二時間前私たちはドイツを旅行していた。そうして、国境を越えて今スウィスに入ったばかりだった。入って見ると、ユンクフラウが待っていたのだ。少年の頃からいかにしばしばそれについて読んだことか、聞いたことか! その親愛なユンクフラウが待っていたのだ。
 私は少年のようにあせって連峰の中から早くそれを選み出したかった。丁度ボイが入って来たので、尋ねると、彼は連峰のまん中あたりに一きわ大きく逞ましく根を張った山を指ざして、あれがそうですと答え、なお次々におもだった峰角の名前を数え立てた。私はパノラマ図録と首っ引きで一つ一つそれ等を跡づけて行った。
 まずユンクフラウ(四一六六米)から左へ辿ると、すぐ隣りの首を少しかしげたのがメンヒ(坊主)(四一〇五米)、その次の足を踏みはだけたのがアイガー(三九七四米)、やや低いのを二つほど飛ばして、鎗のように聳え立ったのが此の山系第一の俊峰フィンステラールホルン(四二七五米)、その先に多くの群小を見下して同じような尖峰が二つ重なり合ってるのが大《グロス》シュレックホルン(四〇八六米)と大《グロス》ラウテラールホルン(四〇四三米)、小さいのはまた飛ばして、ベルクリシュトック(三六五七米)とヴェッターホルン(三七〇三米)、後者の肩からのぞいてるのがハンゲンドグレッチェルホルン(三二九四米)、次がヴェルホルン(三一九六米)、シュヴァルツホルン(二九三〇米)、ヴィルトゲルスト(二八九二米)、次に近いから大きく見えるがそれほど高くないホーガント(二一九九米)。その左の裾に小さく見えるのは遠いからで高さは相当なディヒターホルン(三三八九米)等、等。
 次にユンクフラウから右に数えて、同じような腰強いのがグレッチャーホルン(三九八二米)、その隣りに塀立してるのがエプネフリュー(三九六四米)とアレッチュホルン(四一八二米)、それから低いのを抜かして、ミッタハホルン(三八九五米)、シュヴァルメルン(二七八五米)、グロスホルン(三七六五米)、ずっと右手に孤立してるのがブライトホルン(三七七九米)、次にグスパルテンホルン(三四四二米)、ツィンゲルホルン(三五七九米)、つづいてレッチュターレル・ブライトホルン(三七八八米)、別に離れてブリュームリス・アルプスの山彙を成すものとして、モルゲンホルン(三六二九米)、ヴァイセフラウ(三六六〇米)、ヴィルデ・フラウ(三二五九米)、ブリュームリスアルプシュトック(三二一九米)、ブリュームリスアルプホルン(三六七一米)があり、フリュンデンホルン(三三六七米)がその端にくっ付いて、その手前にピラミッドのようなニーセン(二三六六米)が、これは近いだけに大きく見え、ずっと離れてドルデンホルン(三六五〇米)とベットフリュー(二三九七米)が立ち、まだうねうねと幾らもつづいている。
 その他、雪線(アルプスでは二六〇〇米)以下の峰角は大部分省略したが、此処に挙げた分は「ベルンのアルプス」では皆名士たちだから、繁を厭わないで紹介して置くのは、綺羅星を列ねたその威容の前にいかに哀れな旅行者が圧倒されたかを想像してもらうのに都合がよかろうかと思ったからである。
 その日は午前おそくケルンを立って、殆んど半日間全部、ラインの渓谷を汽車に揺られて溯り、バーゼルで電車に乗り換えてベルンに着いたのだが、途中アルプスを瞥見する機会には恵まれず、アルプスのことは全く意識の外に置き忘れてあった時、いきなり此の壮観に襲われたのだから、手もなく圧倒されてしまったのである。
 私はスウィスに行ったら、ユンクフラウとモン・ブランとマッターホルンとモンテ・ローザはぜひ見たいと期待していた。それにしても、ユンクフラウの山容は写真や画では度々見ていたけれども、こんなに大勢の名士淑女が袖を連ねていようとは思わなかったし、ユンクフラウにしても、彼女自身の形は知ってるつもりだったが、近接した山々との関係に於いて知ってなかったので、実物を目の前に置きながら、教わるまでは見わけがつかなかったのである。田舎者が貴顕の前に出た時のように眩惑してしまったのだろう。

    二

 次の日(五月七日)十六時十六分、私たちはベルンを立ってインターラーケンへ行った。ベルンの標高は約六〇〇米で、インターラーケンも大体似たもので、少し高いが一〇〇呎と差はない。けれども南東へ約六十五キロ進出するから、それだけ「ベルンのアルプス」に接近するわけで、インターラーケンは事実上その登山口である。
 インターラーケンへ行く汽車の興味は、アルプスの山々が刻一刻と近づいて、線路の屈曲と共にその山容を変えることの珍らしさに係っている。
 ベルンを離れて三十分もたつかたたない頃、ミュンシンゲンあたりで、右手の窓にニーセンとシュトックホルンが顔をのぞけ、左手の窓にメンヒとユンクフラウが眺められる。アイガーも少し遠くではあるが眺められる。ニーセンは「ベルンのアルプス」の歩哨を承ってるような山で、位置も私たちの通り過ぎるすぐ前にあり、独りで淋しそうにしてるが、形は金字塔型のなかなか形のよい山だ。上の方は雪で白く、下の方はまだらだった。
 テューンという町には古い城砦があった。そこから湖水が展開して、その縁を汽車は通って行く。湖水の名前もテューン(テューネル・ゼー)で、幅は三キロ、長さは十九キロ以上あるそうだ。湖畔にはもう春が来て、杏子《あんず》や梨の花ざかりで、草原にはたんぽぽが群生していた。シュピーツを過ぎると、右手は丁度ニーセンの真下で、さっき見た時と形が変って、非常に線の強さが目立つ。対岸にも突兀《とっこつ》たる山々が次々に現れて来るが、ベアテンベルクとかいう山は大きな円錐の頭を斜めに截ち切ったような形で、その截断面の傾斜の上に家が飛び飛びにばら撒かれて、画に描いても斯んな景色は実在しないと疑われそうなおもしろさだった。
 やがてテューンの湖水の尽きたところがインターラーケンで、インターラーケンは読んで字の如く湖水と湖水の中間の平地である。というのは、その先にもう一つ、ブリェンツの湖水(ブリェンツェル・ゼー)と呼ばれる大体同じ大きさの細長い湖水が伸びて、地図で見ると、腸詰を二つ結び合せたような形になって、その結び目の所がインターラーケンで、二つの湖水は運河でつなぎ合わされ、夏になると遊覧船が行ったり来たりするそうだ。
 インターラーケンは登山季節の盛り場だけに大きなホテルが軒を列ねているが、私たちはホテル・ユーロープという小じんまりしたのを選んで泊って見たところが、すっかり家庭的な宿屋で、小さな子供たちが廊下で出逢うとにこにこして挨拶したり、部屋も質素だが清潔で、食事も意外においしく、何より閑静で、それに安くて、ベルヴュー・パラースに泊った昨日の今日だけに、大いに気に入った。
 食事前に村を散歩して見ると、ホテルはどこもまだ閑散で(季節は六月以後)、名物のククー時計や熊の木彫や絵端書などを列べた店もがらんとしていた。ユンクフラウやメンヒは村をはずれて少し小高い所まで行かないとよく見えなかった。

    三

 あけの朝は遠足の日の小学生のように早く目をさましたが、一番に気づかわれたのは天気だった。ユンクフラウに登るとはいっても電車が運んでくれるのだから、問題は足ではなくすべて天候に係っていた。一万一千四百六尺のユンクフラウヨッホまで登っても、霽れてくれなければ登った効果は失われてしまう。ところが、あいにく、空はどんよりして今にも何か落ちて来そうだった。ホテルの親爺に相談して見ると、山の上のことは何ともいえないが、吹雪かも知れませんよ、ということだった。気象予報は雪となっていた。吹雪を見に行っても仕方がないが、此処まで来て登らないで引き返すのは心残りだ。二三日滞在のつもりで来ればよかったのだけれども、今日は山から下りるとその足で汽車に乗り、夜なかにジュネーヴまで伸す予定で、ジュネーヴでは同郷の藤田君が停車場で待ってくれてる筈だ。今さら変更することもできず、一日延ばしたところで、明日の天気が保証されるわけでもないから、文字通り運を天にまかせて登って見ようということにきめた。
 それにつけても一つ気がかりなことは、他の荷物はベルンで知り合いになった染矢君(藤田君の友人)の厚意で先にジュネーヴまで届けてもらったが、スーツケイスを一つインターラーケンに持って来てあるのだ。私たちの登山電車がインターラーケンに戻って来るのは夕方の十七時五十分で、ジュネーヴ行の列車が出るのは十八時六分で、その間十六分きりないから、一時預けにできればそれでもよいのだが、それよりも時刻を見計らって御苦労だがこれを停車場まで持って来てくれないか、と親爺に頼むと、こころよく引き受けてくれた。弥生子は傘を借りた。
 登山鉄道は、インターラーケンからシャイデックまでの二十四キロはベルン高地鉄道、シャイデックからユンクフラウヨッホまでの約十キロはユンクフラウ鉄道、と乗り分けることになる。後者は季節には一日八回往復するけれども、今は一日一回きり往復しない。(十一月から三月までの間は交通が全然杜絶する。)
 インターラーケンからラウターブルンネンまで十二
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