ow といった方がいいかも知れない。というと、彼は可愛らしい名前だといって、ノートを出して書き留めていた。なんでも丹念に書き留めるくせのある男だった。南米で生れて南米で育ち、雪の降るところはスウィスに来て初めて見るといって喜んでいた。
食事はスープと肉とデザートで、非常に高かったように思う。しかし、鎗の頂上より二百三十米高い所でサーヴしてもらうのだと思うと高くも感じなかった。若い娘たちがいそいそと立ち働いていた。暖房の装置もよく、室内は外套を脱いでいて丁度程よい暖かさだった。
サロンの外のテラスに出ると、すぐ東にはメンヒの峰(四一〇五米)が、西南にはユンクフラウの峰(四一六六米)が聳え立って、その間にコンコルディア広場《プラツ》とかアレッチュ氷河《グレッチャ》とか呼ばれる氷河時代からの千古の氷原が横たわって、遠くローンの渓谷までも見渡せるというので、扉を排して出ては見たが、横なぐりに吹きつけて来る烈風と骨に喰い入る寒冷に長くは立っていられなかった。上には断崖が削り立ち、下には氷河の渓谷が開けているが、大きな雪片が飛乱してあまり遠くまでは見わけがつかない。私たちの立ってるすぐ上の軒庇から黒い鳥が二羽三羽と吹雪の中を飛び下りて来てはまた飛び上って行く。烏に似て烏よりは小さく、鳩よりは大きい。名前を聞いたらベルクドーレ(山がらす)というのだそうだ。私たちはすぐ目の前にユンクフラウの本体を仰ぎながら、富士より三九〇米高く、新高より二一六米高いその俊峰を卍《まんじ》巴の雪花の中に見失い、しばらく償われない気持で立ちつくした。
それから案内人に導かれて氷の宮殿なるものを見に行った。些か子供だましみたいな所はあるが、子供だましにしては大がかり過ぎる。ベルクハウスから氷河の底へ長くトンネルの廻廊を通じて、氷の円柱が列んで、氷の小部屋、氷の大広間、氷の天井、氷の床、氷の壁、氷の棚。氷の棚にはスケイト用の靴が用意してあり、氷の大広間でスケイティングをやりたい人にはそれを貸す。ペル君(ブラジルのジャーナリスト)は珍らしがって靴を穿いたが滑ることには成功しなかった。案内人は小さい橇を持ち出して、私たちを押して大広間の中を一巡させた。隅の龕みたいな所には氷の花瓶に花が活けたりしてあった。
やがて時刻となり、例の同行六人仲よく下山電車に乗る。
縁があったような、なかったような、ユンクフラウ、さよなら!
アイスメーアのトンネルの中でまた乗り換える。トンネルの中が停車場になって、岩壁に窓が開けてあり、其処から外側が眺められるので、みんなして行って見る。外は雪ばかりだった。窓框の内側にも雪が二三寸積もっている。その雪の中を小さい蚊の幼虫みたいなものが動いてるのをペル君が摘まみ上げて、何だろう何だろうと不思議がってると、肥ったドイツ人がグレッチャーフロー(氷河の蚤)という名前を教えた。
アイガーグレッチャーの付近では、今朝よりも目に見えて雪が深くなっていた。空には太陽の底光りが目に強く感じられながら、まだちらちら降っている。
シャイデックだったか、行きには気がつかなかったが、電車軌道より低い所にある郵便局が雪に埋まっていた。その屋根の上に北極犬が三匹、少し低い所にも二匹うずくまって、電車の下って行くのを見ていた。耳の立った大きな灰色の犬だった。雪の季節には郵便の橇を曳かせるのだそうだ。アルプスは夏の季節になっても、交通は電車と徒歩だけで、自動車のドライヴということはないという話が出た。一つは地勢にも因るのだが、アルプスの人間は自動車の騒がしい音と臭いガソリンの匂いがきらいだから、そういった設備を許さないのだという解釈だった。それも一見識だろうが、これだけの電車があれば、自動車のうるさいドラィヴィングなどはない方がよいにきまっている。
此の登山電車は最近のものかと思ったら、一八九八年(明治三十一年)に起工して一九一二年(同四十五年)に竣成している。設計者は、テューリヒのアドルフ・ガイヤーツェラーという機械技師で、全長九キロ二に対して総工費約一千万フランを要し、牽引方式は触輪式で、動力はラウターブルンネンとブルクラウエネン付近で水力電気を起し、其処から七千ヴォルトの電圧を変圧所に送り、それを六百ヴォルトに下降さして電車を動かしてるので、機関車は三百馬力だということである。私は先年上河内に行った時、せめてあの辺まででも登山電車を敷いたらどうかと思ったが、そうしたら実際あのこわれかけたようなガタバスで揺られて行くよりどのくらい愉快だか知れないのだ。
帰りの電車では、疲れたせいか、いやに睡かったが、それでも行きに雲が懸かって見られなかった景色が展開するので、眠るわけにもいかなかった。ヴェンゲンに近づくともう雪は止んでいた。右側に見上げるような高さから同
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