ていながら、何が何だかわからない。花も雪も、春も冬も、皆一緒くたになってる。
 ヴェンゲンアルプという停車場は停まらないで通り越した。ホテルがたった一軒雪に埋もれて岩角に立ちすくんでいた。左の方は高い岩山になって、右の方は深い広々とした渓谷が開け、晴れていたら眺望のよさそうな所だが、ただ舞い散る雪を見るのみだった。
 十時三十分、シャイデックに着く。二〇六三米。此処で皆下されて、更に上まで登る者は別仕立の電車に第二回の乗換をしなければならない。切符も上の分(ユンクフラウ鉄道)は此処で買い換えるようになっている。これからユンクフラウヨッホまで九キロあまり、往復一人三十二フラン(スウィス・フラン)、恐らく世界一の高い料金だろうが、所がら比類のない難工事であったことと、設備の完全なことを考慮に入れれば、高いとはいえないのかも知れない。問題は、折角登っても眺望がきかなければつまらないので、天候にのみ係っていた。しかし、天候は絶望であるのにおよそきまっていた。その時雪は小止みになっていたが、空は一面の密雲だった。さればといって此処まで来て引っ返すのは永久に悔いを残すことになるだろう。今朝ほどインターラーケンで思い惑ったことをまた繰り返して思い惑ったが、結局、吹雪のアルプスを見るのも一興だから敢行しようということに腹をすえた。それには一人の若いイギリスの紳士の勧誘も手伝っていた。便所で私は彼と並んで用をたしていた。あんたはどうしますか、と彼は聞いた。躊躇してるんだが、此処にじっとしててもつまらないと思いましてね、というと、行きましょう、行きましょう、僕はもう切符を買った、と彼は激励した。便所から出て私は往復を二枚買った。
 電車は四十五分に動き出した。車内は私たち夫妻と、例のイギリス人と、ブラジルから来たジャーナリストと、ドイツ人夫妻と、それだけだった。六人で借り切るには勿体ない車だった。尤も、発車間際になって若い男女のスキーヤーが六七人どやどやと駈け込んで来たが、次のアイガーグレッチャー(アイガー氷河口、二三二〇米、そこまで十五分)に着くと皆飛び下りて、ビンドゥングを締めるなりすぐと滑り去ってしまった。シュトックを振ったり、手を振ったりしながら。どこの青年たちか知らないが、元気で快活で、アルプスを遊び場にしてるのが羨しく思われた。
 アイガーグレッチャーの停車場の前には断崖の端に大きな石造二階建のレストランが半分雪に埋もれて立ってるきりで、他にはなんにも見えなかった。それから四十分ほど登るとアイガーヴァント(アイガー絶壁、二八七〇米)。此処からは、晴れてるとスウィスの西部全体が遠くフランス国境まで見渡せるそうだ。四分間停車。
 電車は長いトンネルに入って行く。アイガーの胎内をくぐるわけである。此の登山鉄道の工事のえらさは、車室にじっと坐ってるのでは実感しにくいが、地図を見るとよくわかる。アイガー、メンヒ、ユンクフラウ、此の三つの大山が、北から南へ一列に並んでいる。それを、北西のシャイデックから登って来た鉄道が、此処でまずアイガーの胴体を北から南へ突き抜け、その次にもう一度メンヒの胴体を北西から南東へかけて突き抜け、つまり大きく半円を描いて最後にメンヒの南西の尾根に出ると、其処がユンクフラウヨッホ(ユンクフラウ鞍部)で、ユンクフラウの峰角を目の前に仰ぐようになってるのである。
 アイガーヴァントのトンネルの先はアイスメーア(氷海、三一六〇米)の停車場で、此処でまた五分間停車。第三回の乗換で、また別の車に移される。皆、寒い寒いとつぶやく。岩角に三四尺の氷柱が垂れていた。
 それからユンクフラウヨッホまで25[#「25」は縦中横]%の勾配を登って終点に着いたのは十一時五十五分だった。標高三四一〇米。日本アルプスの奥穂高の頂上より二四〇米高く、鎗ガ岳の頂上より二三〇・五米高いわけである。それに緯度も日本アルプスに較べて十度以上も高く、寒い筈である。
 覚悟をしてはいたものの、驚いたことには、まず私たちを歓迎したものは急に烈しくなって来た大吹雪だった。停車場のすぐ前のベルクハウス(山の家)に駈け込む。此処で十四時三十分まで下山電車の出発を待つことになる。

    四

 ベルクハウスは大きな石造の建物で、レストランの外にホテルも経営している。広いサロンに入って行くと、研き立てた板敷の床にテイブルが白布を掛けられて幾つも列んで居り、どのテイブルにも銀色の猫柳が二三本ずつ花瓶に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]されてあった。ブラジルのジャーナリストが私たちの食卓に坐った。此の sallow の花を見ると日本の山地を思い出す。日本ではネコ・ヤナギというのだ。cat−willow という意味だ。pussy−will
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