キロ、その間二五〇米ほどの登りで沿道は別に何の奇もない。しかしラウターブルンネンは書き留めて置くに値する奇景の地である。断崖絶壁の寄り集まった渓谷で、村はどこに人家が隠されてあるかわからないほどに散らかっているが、高い断崖から(雪どけの季節だからか)大きな滝が幾つも懸かっていて、小さい流れが其処にもできて居り、リュッツィーネの川に皆流れ込んでいる。川床には到る所に泉が湧き出して、それでラウターブルンネン(泉ばかり)という名前ができたのだという。
 私たちは此処で登山電車に第一回の乗換をさせられる。電車はリュッツィーネを横断すると、いきなり前部が持ち上って急峻な坂道を登り出す。謂わゆるラック・アンド・ピニョン式の電車で、歯車《ピニョン》が一つ一つ枠架《ラック》を喰い締めてことことと登って行く。上はどこを見ても一面の積雪で、片側は白い壁がどんどん窓を掠めて駈け下ると、片側は新緑の谷間が見る見る深くなって行き、其処には針葉樹の群落が幾つもあり、その間に赤や青に塗った人家が散在して、煙突からは淡い煙がのどかに立っている。春と冬の間を行ってるようなものだが、わるいことに霙のようなのがぽつりぽつり落ち出した。さっき登山電車に乗り換える時に、駅長に、上の方の天気はどうでしょうと聞いたら、霽れるとは思えない、という返事で、内心少からず不安を感じていたが、不安は失望に変って来だした。
 雲煙が谷間の向側のばかに細長い滝の糸の懸かってる山の頭を隠して静かに動いている。その先の峡にも、またその先にも、雲煙が次第に多くなって来る。私たちのすぐ前の席に掛けてる肥ったドイツ人は、隣席の細君らしい小さい婦人の注意を雲煙の上の方に誘って、晴れてるとこんな形の峰があそこに見える筈なのだと、五本の指をひろげて自然薯のような形にして見せた。
 その次に停まったのはヴェンゲン。相当な町のようだが、建物の大部分はホテルのようだった。丁度九時半で、教会の鐘が鳴っている。今日は日曜日だった。電車から傘を持った男が一人下りてのそのそと村の方へ歩いて行った。停車してる間に雪が降って来た。道ばたには三四尺の雪が積もっていた。しかし、斜面の雪の少い所には黄いろい桜草や紫の董や名前は知らないがイギリスでよく見たクローカスのような白い花が咲き出ていた。登ってる間に電車の左側の窓には時々薄日がさし込んで来る。雪はしきりに降っ
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