気がつかず、私は先に立って下りていると、後からサイドに腕をつかまえられて立ち止まったのだが、危うく水の中に片足を突っ込むところだった。こごんで鉛筆で深さを捜ろうとしたら、鉛筆は皆隠れ、指の先がやに[#「やに」に傍点]色に染まった。その濁水のしみ[#「しみ」に傍点]はエジプトの土地を離れるまで消えなかった。数日の後、アレクサンドリアからイタリアの汽船でロードスへ行く時も、まだそのしみ[#「しみ」に傍点]が気になって、キャビンの洗面所で何度も石鹸で指を洗ったほどだった。
 そこで最後の石段の上にこごんだまま奥の方をすかして見ると、広さは三間半に二間半もあろうか、割合に小さいクリプトで、丁度上の内陣の真下にあたり、大きな円柱が幾つも立っていて、下の方は水に浸ってるのが、水がどんよりと暗く湛えて泥地の如く見えるので、円柱がいやに短いような印象を与えた。その円柱は本陣と側堂の仕切になっていて、つきあたりの正面が祭壇だが、それは初期の地下塋窟の見本ともいうべき壁龕になってるらしく、其処にマリアと赤ん坊のキリストは起臥していた。というよりは、その片隅に聖母子の起臥していた中庭を後でクリプトの形に改修したのであろう。カイロの町の古い部分の市場へ行って見ると今も見られるが、カーンといって内庭を持った二階建の倉庫風の宿屋がある。昔はその内庭に夜になると家畜を追い込んだが、宿屋に泊れない人間はその片隅に寝せて貰う習慣があった。エジプトからパレスティナへかけてそうだった。マリアとヨセフがベトレヘムの牛小屋に泊っていたというのもそういう場所であっただろうし、エジプトへ来て、バビロンのカーンの片隅に夜露を避けていたというのもそういう事情からであっただろう。そのカーンの跡が、キリストが尊敬されるようになってから、それをクリプトに造り変えて、その上に寺を建てたものと思われる。それはコプトの信仰の盛んになった六世紀頃のことだと推定されている。
 コプト Copt はアイギュプティオス Aigyptios またはエギュプト 〔AE&gupt〕(即ちエジプト Egypt)の転訛で、エジプト土着のキリスト教徒のことを今はそう呼んでいるが、彼等はモハメド教徒侵入前から既にエジプト各地に教会を建てて熱心な信仰を持っていた。今日でもコプトの数は七十万以上あるといわれ、中には福音書を全部暗記してる者さえあるそうだ
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