子供が乞食のようにたかって来て、バクシシュ・バクシシュ! と手をさし出す。それをわれわれから防いで追っ払うためだ。
三
カイロで見るべきものは何といってもエジプト古代博物館である。けれども、それは貴重な記念物を方方から寄せ集めた陳列所で、昔からその場所を占めている遺跡ではない。古来の遺跡としては、カイロにはローマ時代以前の物は殆んど見られない。ローマ時代の物といっても、僅かに城砦の礎石と水道の一部ぐらいである。及び、二三の初期キリスト教寺院の遺跡もあるが、それとても当時の建造物が保存されているのではなく、昔の遺跡の上に建てられた中世の建物である。今日カイロの誇りとしてる建造物といえばすべて中世以後のモスクと墓と、及びサラディンの築いた城砦である。文化史的にいえば、カイロの誇りとするものはすべて回教的なもの[#「回教的なもの」に傍点]でありアラビア的なもの[#「アラビア的なもの」に傍点]であって、パロ的なもの・エジプト的なものではない。
これはエジプト的なものを求めようとする旅行者をば一応失望させないでは措かない。
けれども、カイロの発展の歴史を考えて見ると、必ずしもその範囲を今のカイロ市その物に限定しなくてもよい理由がある。というのは、カイロは昔から何度も位置を替えて移動した都市であり、その移動の径路を跡づけて行くと、初めは今のカイロの南方約十二マイルのメムフィスの土地から発展したことが発見されるから。そうしてカイロはメムフィスから発展した都市だとなると、少くとも当初は最もエジプト的に特長づけられていた筈なのに、それが却って今日では最も回教的な最もアラビア的な色彩を持つようになったというのは何故だろう?
それを理解するためにはカイロ発展の沿革について一瞥する必要がある。
エジプトの王祖といわれる第一王朝の最初のパロなるメネスは、南北エジプトを統一して「白壁」と呼ばれる壮大な王城を建てた。それがメムフィスであった。メムフィスはエジプト人がメン・ネフル・ミレー(ミレーの美の町)と呼んだのをギリシア語にした言葉である。ミレーは第六王朝の王ペピ一世のことで、彼はメムフィスを拡張して美しい大都市にした。その頃、メムフィスは、ヘリオポリス(カイロの北東約五マイル)と並んで三角州《デルタ》の殷賑の中心だった。ヘリオポリス(日の町)は字の如く太陽礼拝の土地だったが、メムフィスは技術の神プタ※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]礼拝の土地で、多くの殿堂・宮殿の中でもプタ※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]の殿堂がすぐれて見事だったといわれる。しかし今は何物も遺ってない。棕櫚の木の繁茂の間からラメセス二世の二つの巨像と手頃なスフィンクスが一つ発掘されただけである。メムフィス創始の年代は半ば伝説的で正確なことはわからないけれども、メネスのエジプト統一が(ブレステッドに従って)紀元前三四〇〇年頃だったとすれば、メムフィスは今から五千三百年以前に開けた都だということになる。其処で繁栄は千年以上つづき、中期王朝時代に上流のテバイの新都が始まるまで首都だった。
テバイが首都になると共に、三角州《デルタ》の政治的勢力は衰微し、長い間メムフィスにあった活動力は次第に河を越して対岸に移り、北へ北へと動いて、一つの新しい活発な商業都市を作り出した。バビロンと呼ばれたのがそれであった。バビロンも長くつづき、降ってローマ帝国時代が繁栄の絶頂で、トラヤヌス帝は其処に城砦を築き防備を固めた。その頃は古代エジプトの王統はすでに絶え、ギリシア統治時代も過ぎ去り、ローマの支配の下に、初期キリスト教は迫害に抗しながら根強い力で弘まりつつあった。カイロを初め、エジプトの各地に、今日もコプトのキリスト教が相当に信者を持っているのはその頃からの子孫だといわれる。それ以前にマリアが赤ん坊のキリストを抱いてユダヤ王の迫害からしばらく隠れていたのも今のカイロ付近だった。実際、エジプトのバビロンといえば、その頃は昔のアジアのバビロンよりも有名だったが、今もカイロの郊外にデイル・エル・バビロンの名が残っている。
七世紀の前半にアラビア人の侵入が始まった。哈利発《ハリハ》オマルの派遣したアムル・イブン・エル・アジという猛将が攻め込んで来て、バビロンの城砦を陥れ、エル・フスタト(フォスタト)と呼ばれる都市を作った。今のカイロ市の南に隣接する謂わゆる旧カイロがその記念として残ってる区域で、エジプトの回教化はその時代から間断なく行われた。フスタトの語意についてはいろんな説があるが、ローマ人がバビロンの城砦に外濠を繞らしてフォサトゥムと呼んでいたのを、アラビア語化してフスタトとし、陣営[#「陣営」に傍点]の意味で用いたという説が妥当らしい。スタンリ・レインプールの『中世』に拠ると、
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