その時アラビアの侵入軍は破壊したバビロン城砦の付近に陣営を張ったまま長駆してアレクサンドリアを攻略し、帰って来てその陣営《フスタト》の位置に新都市を経営した。それがエジプトに於ける最初のアラビア都市で、後のカイロは其処から発展したフスタトである。新しい宮殿やモスクが次々に建てられた。
その後トルコ人がエジプトに勢力を得て、フスタトの北部(即ち今のカイロ市内の区域)に新都市を拡げ、マスル・エル・フスタト或いは略してマスル(またミスル)と呼んだ。現在イブン・トゥルンのモスクを囲む一廓がその頃の遺跡として残っている。名称も今なおマスル・エル・アティカ(旧マスル)と呼ばれている。マスル(ミスル)はエジプトを意味するアラビア語である。
やがてトルコの勢力はまたアラビア人回教徒のために駆逐され、九世紀の末葉にはアハメド・イブン・トゥルンがマスルを拡張し、十世紀に入っては更にギリシア系の哈利発《ハリハ》ムイズの代官ガウハル将軍が宏大な城廓を築いて市街を整頓し、モスクを建て列ね、町の名をもマスル・エル・カヒラと改めた。後に回教大学に改変されたガミ・エル・アザールもその頃建てられた。エル・カヒラ 〔El−Ka^hira〕 はアラビア語のカヒル 〔Ka^hir〕(火星)の転訛で、それが都市の名称となったについてはおもしろい記録が残っている。九六九年八月五日の夜、ガウハル将軍は新都市の設計を完了して、砂原に繩張をし、占星者が天体を観測して、吉兆の瞬間に鐘を鳴らせば、最初の鋤が入れられるように用意して、土工たちは合図の鐘を待っていた。その時、一羽の大鴉が鐘の柱につないだ綱にとまったので、鐘が俄かに鳴り出し、土工たちは一斉に鋤を入れた。その瞬間、観測者の眼鏡に火星《カヒル》の上るのが見られた。それでカヒラと新都市は命名されたが、アラビア人の伝説で火星《カヒル》は不吉の兆とされていた。けれども同時に火星《カヒル》は軍神(ローマのマルス)でもあり、勝利者[#「勝利者」に傍点]を意味するということに故事つけて、カヒラは以後「勝利の町」として理解されるようになった。
近世に入ってカヒラは再びトルコ帝国の支配下に属したが、ナポレオンの指揮するフランス軍の侵入のためにそれを抛棄しなければならなくなり、その機会を利用してモハメド・アリが奮起し、またアラビア人が主体となって、古いモスクを修覆し、新しいモスクを建立し、都市に近代的設備を施して今日のカイロを造り上げた。カイロ Cairo はカヒラのヨーロッパ語化である。町の名がヨーロッパ化したと共に、都市その物の実質もヨーロッパ化したのは、フランスとイギリスの勢力がエジプトを動かすようになった結果で、それがカイロの現状である。
そんな風にして、カイロは五千五百年間に複雑な変遷を経験したのであるが、それを大まかに区劃すると七通りの変遷をしたことになる。初めは(一)古代エジプト王朝発祥の地としてメムフィスの名で長い間知られ、次に、エジプト[#「エジプト」は底本では「エジプと」]王朝没落後(二)バビロンの名でローマ帝政時代の遺跡を留め、初期キリスト教の流布に貢献するところが多かった。次に中世に入っては(三)アラビア人に依って回教化され、フスタトと呼ばれて今の旧カイロの部落を残し、更に(四)トルコ人の治下でマスルと呼ばれて今のマスル・エル・アティカの区域を残し、次に(五)ギリシア系回教徒に依って今日のカイロの基礎が置かれ、名称もカヒラと改められ、次に近世に入って(六)カヒラはカイロとなり、中世以来の回教都市はその上に国際都市的色彩を加えた。それには(七)フランスとイギリスの勢力が根強く潜在するようになったのを見遁すことはできない。つまり、七種の文化が七重に堆積して[#「七種の文化が七重に堆積して」に傍点]出来上った複雑怪奇な都市でカイロはあるということになる。
そうしてその変遷の過程を跡づけて見ると、発展の径路はニルの左岸に始まって右岸へ移り、更に南から北へと移動している。これは一つはニル流域の地理的変化に因るといわれるが、一つはまた時代に依って変った交通機関の影響もあっただろうし、更にまた新しい侵入者がいつも古い都市を灰燼にする習慣のあったことも考慮に入れなければならないだろう。
とにかく、そんな風にして都市が動き変り、古い物の上に新しい物が重ねられ、その度に文化の様式が改変され、以前からの種族の中に別の種族が割り込み、殊に近代に於いては近東地方からもヨーロッパ諸国からも多くの種族が流れ込んで、全く今日のカイロは宛然たる人種市場の如き景観を呈するようになってしまった。
四
私たちはニルの奥地へ行く前と、帰ってからと、毎日時間を都合してカイロの町と郊外を見て歩いた。諸種の博物館(エジプト古代博物館・アラ
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