ビア民族博物館・等)に入ったり、モスクを訪問したり、哈利発《ハリハ》の墓やマメリュクスの墓を見たり、コプトの教会へ行ったり、サラディンの城に上ったり、ローマ時代の城壁を横ぎったり、水道の遺物を眺めたり、また大通を歩いて見たり、裏町を抜けて見たり、公園を散歩したり、動物園を訪ねたり、カフェで休んだり、夜店をひやかしたりして、あらゆる角度からカイロの(同時にエジプトの)概念を作り上げようと試みた。
その場合、いつも突きあたって解決に苦しんだ問題は、一体、カイロは(或いはエジプトは)誰の町であるか?(また誰の国であるか?)ということだった。
或る都市に幾ら外国人が多く居住していても、例えばロンドンならイギリス人の町であり、パリならフランス人の町であり、ローマならイタリア人の町であり、ベルリンならドイツ人の町であることに問題はないが、そういった意味で、カイロは何人《なにじん》の町だといったらよいのか? エジプト人の町だといえるなら簡単だが、それでは、エジプト人とはどんな国民かと考えて見ると、また厄介なことになる。
文化的にエジプト人というと古代王朝時代のエジプト人のことで、彼等の功績は古代ギリシア人の功績に優るとも劣らないほど偉大なものだったが、それはもはや今日地球上に存在しない。血族的にその子孫といわれる者は残っていても、文化史的にすでに無価値な人間である。丁度ギリシアにギリシア人と称する者は生きているけれども、古代の輝かしい文化の生産者だったギリシア人とは文化史的に殆んど何等のつながりをも持たないと同じように。その意味で今日のエジプトは、三千年乃至五千年前のすばらしい文化の遺跡となってしまい、その文化の直接の後継者がいなくなったがらんどうの空地のようなものである。その空地には古代エジプトの文化と無関係の侵略者が押し入り、断えず争ったりいじめ合ったりして来たのである。
地理的・政治的にいうと、近代エジプトの人口を構成している人種はざっと十種を数えることができる。まず古代エジプト以来の遺族と認められる者が二種ある。その一は(一)フェラヒン(農民)と呼ばれ、エジプト人の人口の大部分を占め、すべて耕作者で、主としてニルの上流地方に居住している。人種学的にはコプト人と共にハム種族の直系と認められ、謂わゆる「エジプト人」だが、政治的には全く無能である。女は結婚しても年とって
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