すところに妙味があつた。剣道などでは殊にそれが生命となつてゐた。その場に臨むと、親、親に非ず、師、師に非ず、といつたやうな意気があつた。その意気が昔は能の演出の生命であつた。しかし、今日の能の演出にはその意気はあまり見られなくなつた。もしそれが全く見られなくなつた時は、能は(今日の舞楽と同じやうに)憐れな美しい屍骸と化した時である。能は、少くとも形式だけは、まだ長くつづくであらう。しかし、現下の状態では余命幾ばくぞやの感なきを得ない。
 事態かくの如くなつた以上は、もはや昔の演出の組織の如くシテを舞台監督者と見做して統制しようとしても、それは木に縁つて魚を求めるが如きものである。実行の可能な一つの方法としては、宝生九郎翁の如く、最も有能な実力者が後見となつて、或ひは地頭となつて、演出を監督すべきである。しかし、その前に、能役者・アヒ・囃子方・地謡の性根から入れ替へてかからなければならぬことは言ふまでもない。
 さて、舞台監督の談義が少し長くなつたが、前にも述べた如く、能の芸術価値は殆んど全くその演出の上に係つてゐるのであるから、その演出の理論と実際について少し詳細に亘つて述べて見たいと
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