翌ヘ最も軽蔑した態度で答えた。苟くも母たる者に対する斯くの如き侮辱に答えることは、天も共に拒むものである。自分のこの法廷に集まっているすべての母親にそれを訴える。此の矜持に充ちた答弁は、それを伝え聞いたロベスピエールをさえ感激せしめ、エベールの陋劣を憎ましめた。
彼女は若い時はたしかに聡明でなかった。ルイ十六世をも、フランスをも、不幸に導いたほどのまずいことを数数演じた。けれども私行については神の前にも恥ずべき点がなかったといわれる。母親ゆずりの政略的性行と世間を無視した思い上った行動が、彼女を誤らしめ、国民の反感を買わしめたのである。彼女の尊大は断頭台の上に立つまで失われなかったが、さすがに獄内の孤独は彼女をあわれな女の心に立ち戻らせたこともあったと見え、やるせない思いをピンの尖で紙に穴をあけて書き綴った辞句が、今も礼拝堂博物館のガラス・ケイスの中に保存されてある。
[#ここから2字下げ]
〔Je suis garde' a` vue〕
〔Je ne parle a` personne〕
〔Je me fie a` je viendrai ……〕
[#ここで字下げ終わり]
明けても暮れても見張られて居り、語る者とては一人もない。そうした悲しい昼と夜が五十三日続いた。そうして遂に彼女は呼び出された。
四
呼び出されたのは同じ構内の今の民事第一法廷で、当時はそこで革命裁判が開かれ、冷酷なフーキエ・タンヴィルがてきぱきと矢継早やに判決を下していた。マリ・アントワネットは十月十四日そこに「未亡人カペ」として召喚され、二日二夜に亘る辛辣な審問の前に、臆するところもなく立ちつづけ、簡明直截な答え方をしたり、或いは答えることを見合せたりした。その態度のひどく威厳を具えて立派であったことは多くの史家の等しく賞讃するところで、若かった頃の、国民に眉をひそめしめた頃の彼女とは別人の如くであった。その時彼女は三十八歳、革命の動乱が彼女の性格を鍛え上げ、天晴れの女丈夫に仕上げたのであった。
十月十六日未明、怪奇を極めた審問が終ると、フーキエ・タンヴィルは、何か言うことがあるかと聞いた。マリ・アントワネットは首を振った。陰惨な法廷の燭火は燃え尽して消えようとしていた。彼女の生命も消えようとしていた、彼女は予定の如く死刑を宣告された。彼女は無言のまま法廷を出た。
午前十一時、彼女は白布の囚人服のままで手を縛られて馬車に乗せられ、コンコルド広場へと運ばれた。パリの町町には太鼓が鳴り響き、街上には武装した三万の兵士が警戒していた。
彼女が十四歳の春ヴィーンからはるばるの旅路を辿ってパリに乗り込んだ時のきらびやかな楽しかった行列に引きかえて、これはまたなんという傷心な行列だろう! 馬車には一人の憲法司祭が付き添ってるきりで、前後は警固の騎馬に護られていた。けれども熱狂した群集は彼女を売国奴と思い込み、痛罵と叫喚を投げかけるのみだった。馬車がコンコルド広場に近づくと、サン・ロシュの群集の中から一人の女が現れて、マリ・アントワネットに唾を吐きかけた。唾は彼女の手をよごした。今まではさしもの喚声も聞こえぬように胸を張っていた彼女も、さすがに一瞬間色をなして、此の穢らわしい暴徒が! と叫んで、その方に背中を向けた。
やがて広場に着き、最後の祈がすむと、ギヨティーヌの上に導かれた。その足どりも甚だ確かなもので従容自若としていたとはいわれる。十二時十五分、ギヨティーヌの大きな斧刀は鋭く落ちて、美しい首を美しい身体から断ち放した。ルイ十六世の場合と同じく、ヴィーヴ・ラ・レピュブリクの喚声が広場の空気を震わせた。
革命裁判の狂暴とギヨティーヌの運転はその後も止む時なくつづいた。ジロンド党員が殺され、貴婦人たちが殺された。パリはまだしばらく血に飽きることを知らなかった。その間にもサンキュロトの共和政府は混乱を重ねて殆んど収容しきれない状態に立ち至った。けれどもナポレオンの打ち出した砲弾が遂にすべてを解決した。
マリ・アントワネットについての最後のあわれは、その屍体と首が近くのマドレーヌの墓地に葬られた時、霊柩を提供する者がなかったので、寺男は自分の財布から七フランを払って「未亡人カペ」のために形ばかりの葬りをしたということが、その寺の帳簿に書き遺されてある。
底本:「世界紀行文学全集 第二巻 フランス編2[#「2」はローマ数字、1−13−22]」修道社
1959(昭和34)年2月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2006年7月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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