bトの部屋の間の小部屋には、革命の闘士ロベスピエールが処刑前に二十四時間入れられていたので有名である。……
 しかし、マリ・アントワネットのことをもっと考えて見よう。
 礼拝堂の壁に懸かってる画の中にマリ・アントワネットに関するものが二つある。一つは彼女がタンプル塔からコンシエルジュリに移される時子供たちと別れる場面、今一つはコンシエルジュリの地下牢で聖餐式を受けてる場面。いずれも感傷的な情景で、それをヴェルサイユ宮殿のガレリ・バスに陳列されてる花やかな画(マリ・アントワネットの肖像、彼女が王子・王女たちと並んだ肖像)と較べて見ると、何という哀れな対照だろう! ヴェルサイユの宮殿は二階正面のガラスの大広間から西へ廻って二つ目に王妃の部屋があって、グリザイユの天井とゴブランの壁掛《タペストリ》で装飾され、其処にも誇らしげに胸を張った彼女の肖像画を見た。それに続く王妃の小部屋《カビネ》が二つ三つ、思いきって小さい部屋ながら心にくい装飾を凝らし、書斎もあれば、浴室も付いていて、小さいサロンには其処にも美しい彼女の胸像があった。
 彼女は美貌でもあったが、非常なおしゃれで、取りわけ衣裳道楽とカルタ遊びには目がなかった。尤も、母親マリア・テレザの目のヴィーンから光っていた間は、それでも遠慮がちであったが、マリア・テレザが死んで後は、世界に怖い者がなくなり、天下晴れて大っぴらの道楽者になった。しかし十四の時にオーストリアから輿入をして、華やかな贅沢なフランス宮廷の生活に慣れていたので、趣味だけはよく磨かれたと見え、ヴェルサイユ宮殿の後苑プティ・トリアノン(ルイ十五世がマダム・バリのために造った後苑)を殊に好み、そこにルイ十六世は彼女のためにイギリス風の設計をしてやり、日本の茶室を思わせるような小村を造り、珍らしい東洋の花木を植え、宮廷婦人たちがルッソーの『村の占卜者《うらないしゃ》』の影響を受けて貴族的牧歌趣味をひけらかしていた仲間に加わったりもしていたといわれる。私はそこを訪問した時、小さい流れには水車が廻っていて、池のほとりに菖蒲が咲いていたり、柴垣が繞らされてあったりする庭のたたずまいを眺めて、日本に帰ったような気がしたが、マリ・アントワネット[#「マリ・アントワネット」は底本では「アリ・アントワネット」]を中心とする宮廷婦人の一群がその中を動きまわっていた昔を想像して、贅沢の限りを尽したものだと感じた印象を忘れない。
 それは一七八二年頃までの彼女の生活だったといわれるが、十年後には世界がひっくら返って、豪華なヴェルサイユ宮殿の女主人公は、見るもあわれな冷たいコンシエルジュリの石牢に押し込められていたのである。夫君は処刑され、子供たちとは引き裂かれ、石牢二箇月半の生活は、彼女にとってやるせないものであったに相違ないけれども、持って生れた尊大の気性と贅沢の習慣は、牢の中でも一日平均十五リブラの食料を消費していたと伝えられる。
 その頃全パリは暴動化して、市民はすべて気ちがいの如く、悪魔の如くなっていたけれども、個人的には多少の例外もなくはなかった。彼女の付添役を命じられていた守衛《コンシエルジュ》のリシャールの如きは規則の許す限りの同情を彼女に寄せていた。ある日、彼女は新鮮な果物を欲しがった。リシャールはひそかに外へ出て、河岸で果物売の女を見つけ、一番良いメロンを買おうとした。果物売の女は守衛の擦りきれた服を見て、そんなにおえらい方の召し上り物ですかと皮肉に聞いた。そうだ。今までは一番えらい方だったが、今ではそうでもない。王妃さまの召し上り物だ。そう答えると、果物売の女はびっくりして、メロンを皆ぶちまけてしまい、お気の毒な方だ。金はいらない。これを皆上げて下さい。といった。
 またコンシエルジュリの憲兵の一人は監視中いつも安煙草を吹かす癖があって、一晩中吹かしつづけ、換気のわるい石牢に煙がこもって、マリ・アントワネットが翌る朝青白い顔をしてるのを見ると、すまないことをしたと気づき、パイプを叩きこわしてそれっきり禁煙を誓った。
 しかし、そんなことは彼女にとってどうでもよかった。彼女は石牢の中では王妃の尊厳を踏みにじられたことの憤激と子供たちを思ういたいたしい気持の間をいつもさまよっていた。たまに革命政府の許可を得て王妃に会見を求める者があると、付添のリシャールはいつも、どんなことを話してもよいが、お子さんのことだけには触れてはいけない。と忠告したそうだ。処刑される前に革命裁判の法廷に呼び出されて審問を受けた時、証人エベールという男は、革命裁判の意を迎えるためか、彼女にとって最も不利となるべき破廉恥事件を立証した。マリ・アントワネットは昂然として突っ立ったまま、それを無視した。陪審員の一人が、彼女の弁解しないことを指摘した。その時、彼
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