るかも知れないが、それは直接の原因でない一つの出来事を簡単に一つの結果に結びつけようとする粗雑な考え方で、正当な判断であるかどうかは問題である。私が愉快だといったのは、それに依って示されたフランス人の芸術に対する理解が低級でないことについての印象である。フランスを打ち負かしたドイツ人といえども、芸術に対する理解は低級ではない筈だと思う。戦争の直前ハイデルベルヒに行ったら、あの美しい城内の広場でシェイクスピアの『夏至《げし》の宵祭の夢』を野外劇として演じ、特にイギリス・アメリカの訪問者を歓迎するというびら[#「びら」に傍点]を撒いていた。
二
ここで紹介しようと思うパリの地下牢なるものは、その裁判所の地下室のことで、呼び名はコンシエルジュリ(守衛所)で通っている。というのは、昔議会がここで開かれていた頃、その地下室は守衛《コンシエルジュ》の宿泊所になっていたからの来歴だそうである。それがロンドン塔と並んで有名になったのは、革命の時、牢獄として使用され、殊にルイ十六世の王妃マリ・アントワネットが幽閉されて以来のことである。パリの町には到る所に革命の記念物があるが、この地下牢とコンコルド広場ほど傷ましいものはない。コンコルド広場は今は繁華の中心地となって、ルクソル(エジプト)から運んで来たラメセス二世の方尖柱《オベリスク》が聳え、私たちが歩きまわっていた頃はその周りを昼も夜も忙しそうな平和の車の奔流が渦巻いていたが、革命の時はまだ方尖柱《オベリスク》は立ってなく、その代りに恐ろしいギヨティーヌ(断頭台)が立っていて、名前も革命広場と呼ばれ、ある日には王の首が断たれ、別の日には王妃の首が断たれ、また別の日にはロベスピエールの首が断たれ、その他、貴族・公吏・ジロンド党員等、無量二千の首が刈り取られた。実際少しでもフランスの歴史を知ってる者にはその頃の恐怖を回想することなしにはパリの町は歩けない。
私たちはコンシエルジュリを見て置いたために、またヴェルサイユの宮殿やテュイルリの宮殿をのぞいて置いたために、また革命博物館やカルナヴァレ博物館を一巡して置いたために、七月十四日の革命記念祭――しかもその年(一九三八年)は革命百五十年祭――の日に、昼間はシャンゼリゼの大通りを練って行くフランス陸軍(それにイギリスの軍隊も参加して)の大行進を見、夜はバスティーユ広場
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