Eド・ラ・シテは長い間パリの中心であっただけに、今でも主要な建物がいろいろ遺っている。ノートル・ダーム、サント・シャペル、パレー・ド・ジュスティス等がその顕著なものである。ノートル・ダームの大寺はローマ時代にはユピテルの神殿のあった位置で、イル・ド・ラ・シテが「パリの目」なら、ノートル・ダームはその「瞳」だといってもよい。ここに寺の建てられたのは四世紀の半ば過ぎで、初めは聖エティエンヌと呼ばれていた。それを聖母(ノートル・ダーム)に捧げる寺にしたのはいつ頃からかよくわからないが、ヴィクトル・ユーゴーに拠れば、シャールマーニュ帝が最初の礎石を置いたというから、そうすると八世紀の末か九世紀の初めであっただろう。今の建物は十二世紀の後半から十四世紀の初期までかかって完成されたもので、荘厳無比のそのゴティク様式は、ランス、アミアン、シャルトル等の大寺と共にフランスの誇りであり、書けばそれだけでも一冊の本になるほどの資料がある。
 サント・シャペルは昔の王宮の礼拝堂で、聖《サン》ルイが第七・第八十字軍遠征から持って帰った遺物(今はノートル・ダームの宝蔵にある)を納めて礼拝するために建てたもので、フランス建築史の上では最も重要な建物の一つである。私たちを案内した吉川君が一番にここを見せてくれたのもその意味からであった。この礼拝堂がパレー・ド・ジュスティス(裁判所)の一角にくっ付いてるのは、ちょっと見ると、異様にも見えるが、パレー・ド・ジュスティスはパレー(宮殿)の言葉が示す如く、もともとフランスの王宮として建てられたもので、十五世紀以来法廷として使用されるようになったのであるが、それ以前においても聖ルイはその一部を議会《パールマン》(即ち最高立法部)に提供していた歴史がある。私たちはパリ滞在中にこの裁判所の前庭で、ラシーヌの唯一の喜劇『レ・プレーデュール』(訴訟きちがい)がコメディ・フランセエズの俳優たちに依って慈善興行として演じられるのを見に行ったことがある。裁判所で裁判を揶揄した芝居をやらせるのも愉快だが、使われたのは五月庭と呼ばれる広い前庭とその大きな階段(その上が舞台になる)だけではなく、正面の建物(ガレリ・マルシャンド)と左手の建物(ガレリ・ド・ラ・サント・シャペル)も背景として利用されたのだから愉快である。――そんな風だからフランスはあんな負け方をしたのだという人が
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