ュリアとか、クリアとかレジアとか、或いはアントニウスがケーサルの追悼演説をしたといわれるロストラとか、そういったものを見て歩きながら、すぐ南の方に高さ五六十米の褐色の煉瓦で固められた断崖が長くつづいて、月桂樹や糸杉でその上を縁どられ、美しい景観を作り出してるのを見落した筈はないだろう。それがパラティーノの山の北の端で、ローマ民族の伝説的発祥の地として昔から神聖視され、また帝国時代の初期には歴代の皇帝が宮殿を営んだ所として有名である。
パラティーノは謂わゆるローマの七つの山――前記の四つの山の外に、クィリナーレ、ツェリオ、アヴェンティーノ――の中で、中央に位して他の六山を三方に配置し、西側はテベレの流に臨み、しかも孤立した丘陵となってるので、最も要害堅固の城砦として役立った。伝説に拠ると、山の端に一本の無花果の木があり、その下で牝の狼がロムルスとレムスの双生児を育てた。そのロムルスが成長してローマ建国の大祖となったのである。カピトリーノのパラッツォ・デイ・コンセルヴァトーリ博物館に「ルーパ・カピトリーナ」と称する青銅の大きな牝の狼が乳を垂らして立ってると、二人の小さい子供がその下に乳を仰いで坐ってる群像がある。エトルスクス時代の製作で、昔はパラティーノのルパルカルに在った。その牝狼の首は今日でもイタリア政府の発行する国立博物館の入場券に黄色の紙に赤く大きく刷り出されてある。
伝説ではロムルスは弟のレムスを殺してローマの創始者となったといわれてるが、今日の学説では、ロムルスという個人があったことは否定され、種族の名前だと解されている。種族的には原型のラテン族だとも、また一説ではエトルスクス族だともいわれる。そのロムルスに依っての最初の民族的結合は紀元前八世紀の中頃で、伝説で伝えられた紀元前七五四年という建国の年は不合理でないと承認されている。
しかし、その時初めてローマに人間が現れたのでないことはいうまでもない。テベレの流域には紀元前二五〇〇年頃からすでに新石器時代の人種が生活していた。恐らくリビュアやマウレタニアの牧草地帯からイベリア半島を通って移住したもので、テベレ沿岸の樹林を伐り開いて、狼・熊・野猪などの迫害に悩まされながら、牧畜を生業としていた。其処へ、紀元前一七〇〇年頃から新しい民族がドナウ流域から移入して、青銅の武器を以って先住者を駆逐した。此の新来者
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