aしていた。見て通りながら私たちはみんな同時に感歎の言葉を吝まなかった。中にも、右側に長く壁を列ねてホテルの看板を掲げた大きな建物は、特に目立って注意を惹いた。その壁には高さ四間もあろうかと思われる杏子《エイプリコト》の枝を見ごとに這いまとわせてあるのが十数本並んでいて珍らしかった。ケンブリッジでは木瓜《ぼけ》を同じように仕立てたのを見たけれども、こんな大きな古い木を壁に這わせたのは初めてだった。蔦ならばどこでも見受けるが、花の咲く果樹で図案風に外壁を飾るのは思いつきだとおもった。
 しかし、私たちがその家に秋波を送って通り過ぎたのは、実はそういった美的鑑賞の見地からばかりではなかった。時刻はもう五時に近く、なにしろ六十マイルばかりも車に揺られ通しで、空腹を感じていたので、ホテルの看板を見ると急に茶《ティー》を思い出したのだった。あの家《うち》で休んで行こうか? そうしよう。誰が言い出すとなく言い出し、誰が同意するとなく同意して、車を回したのは、その先の四つ角を通り過ぎ坂道を下《くだ》りかかった時だった。坂の上にも一軒、傾斜の角度のちがった二つの屋根と三つの煙突を持った古い家が立っていて形がおもしろいので、車をまわす間に写生した。
 ホテルにはカートライトという名前がついていた。門を入ると広い中庭で、周囲には納屋みたいな建物が並び、門を入った両側の二階屋が母屋になっていた。私たちの通されたのは、左手の薄黒いドアを開けて二つ目の部屋で、手前の部屋は酒場《バー》になっていた。通された部屋は食堂で、大きな煖炉があり、家具は樫《オーク》づくめで、樫《オーク》の円テイブルがまん中に置かれ、窓の下にはダフォディルの鉢が並んで、鳥籠には青いインコが飼ってあった。二階はすべて客間らしかった。私たちはトーストに半熟の卵を添えさせ、香気の高い紅茶を啜りながら、簡素なテューダー王朝時代の田舎家の室をいかにも居心地よく感じて、こんな所でしばらく好きな本でも読んで暮したいとか、物が書きたいとか話し合った。

    三

 ストラトフォード・オン・エイヴォンに着いたのは夕方だった。太陽は没していたがまだ日中の光は残っていた。エイヴォンは「銀の川」といわれるけれども、前の日に雨でも降ったものか、かなりひどく濁っていた。しかし、ヘンリ七世時代に掛けられた長い石橋を画面の中に取り入れて、白鳥の遊んでる低い川岸と、それを縁《ふち》どっている絹柳の並木とその向に聳え立ってる神聖《ホリ》トリニティの尖塔を一緒に見通した景色は何とも美しいものだった。町には、祭の季節だからだろう、人が大勢歩いていた。
 まず宿を取って置く必要があったので、私たちはシェイクスピア・ホテルというのに乗りつけた。赤馬《レッドホース》というのも橋のたもとにあって、ウォシントン・アーヴィングが此の土地の印象記(それを私は中学時代に読んだ)を書いた時泊っていたホテルだというので有名だが、それをば此の土地第一の得意客なるアメリカの淑女紳士諸君のために譲ることにして、私たちはシェイクスピア・ホテルの方を選んだ。それは十五世紀に建てられた気持のよい木造三階の建物で、家具なども調和するように工夫されてあるので興味を喚び起されるが、宿泊者にとっての今一つの興味は、客室の一つ一つが作品の名を持ってることで、どんな部屋に案内されるかと思ったら、私たち二人の部屋は九号室で、All's Well that Ends Well(おわりよきものはすべてよし)だった。なるほど喜劇の外題だったら大してあたりさわりがなくてよかろうが、悲劇にはだいぶさしさわりのあるものがある、というと、喜劇だって新婚の夫婦がい L. L. L.(恋の骨折損)の部屋に通されたらどんなものだろう、とか、いや、やきもち屋の亭主と Othello《オセロー》 の寝室に寝かされたらどうだろう、とか、そんなことを話し合って笑ったが、そういえば今夜は『オセロー』の芝居を見に行くのだったと思いつき、急いで支度をしてロッビへ下りる。
 廊下のつきあたりに Macbeth《マクベス》 と札を打った部屋があって、ドアがあいていたから、のぞいて見たら、読書室だった。さしさわりのある名前は客室には付けないのかも知れない。ロッビで水沢・工藤両君に部屋の名前を聞いたら Troilus《トロイラス》 and《アンド》 Cressid《クレシダ》 だといって、つまらなそうな顔をしていた。
 芝居のある場所はシェイクスピア記念館《メモーリアル》といって、ホテルから歩いて五分とはかからなかった。一方はすぐ川になって、前の広場の楡《にれ》の並木には色とりどりの裸か電球が枝に付けてあるのも祭の季節だからだろうが、鄙びてストラトフォードらしかった。記念館は前世紀の七十年代に建てられたも
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