依ると、グローブ座の近くに店を持っていて生前詩人の顔をよく見知っていたオランダの石工ヤンセンという男が、詩人の女婿ドクター・ジョン・ホールの依頼を受けて彫った物だという。片手で鵝ペンを持ち、片手で紙を押え、顎鬚をきちんと刈り込んで、いかにも幸福そうに顔を伸ばした相貌で、スコットやサー・シドニ・リーには評判がわるいが、(私自身もあまり感心しないが)、しかし、詩人の時代にできた二つきりの肖像の一つである。
 内陣の西の隅のガラス箱に三百年前の教区登記簿が保存されてあり、係りの老人が大事そうにそれを開けて見せた。一個所には詩人の洗礼の日付と洗礼名が 1564 April 26 Guliemus Filius Johannis Shakspere(ジョン・シェイクスピアの息子ウィリアム)とラテン名で記され、また他の一個所には死んだ日付が 1616 April 25 Will Shakspere, Gent. と記されてある。生れた日は四月二十二日(或いは二十三日)であるのに二十六日と記入されてるのは、その頃は生れて三日目に洗礼を受ける習慣だったからだと係りの老人は説明した。その頃の洗礼盤は古くなって欠損したから、廃物として後園の片隅に長い間棄ててあったのを、洗礼された人がえらくなったので、また復活して今では大事に教会の中に飾られてある。
 五十二歳で死んだシェイクスピアは死ぬ前に懸命に此の世に遺して行くべき骨のことを気にしていた。しかし、私たちはミルトンと共に
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What needs my Shakespeare for his honoured bones
〔The labours of an age in pile'd stones?〕
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といいたい。何となれば、彼は遣骸の上に石を積み重ねなくとも、彼自らを人類永久の記念物として作り上げたのだから。

    六

 私たちは一まずホテルに引き上げて預けて置いた鞄を受け取り、また水沢君がジョファになってくれて、ショッタリの村へ出かけた。十八歳の若者のウィリアムがやがて妻となったアンの家へ通った遺跡を見るために。
 その村はストラトフォードの西一マイルほどの郊外で、今は中流生活者の住宅地となって煉瓦建の家が樹林の間にぽつぽつ見えるけれども、昔はもっと田園めいて、木材の骨組の現れた草葺のコッテイジばかりだったということである。途中でもそういった古いコッテイジを幾つか見たが、その最も代表的なのは私たちの訪ねたアン・ハサウェイの家である。
 前には小さい川が流れて土手の並木の影を映し、コッテイジは二棟が一つのようにくっつけられ、大きな煉瓦の煙突が三つ藁葺屋根を高く突き抜いて居り、漆喰の白壁には太い樫《オーク》が歪《ゆが》みなりに竪横に組み合わされてある。周囲はことに気持よく、往来を仕切った無骨《ぶこつ》な木柵もおもしろければ、家の前に刈り込まれた植木も(刈り込み方は技巧を凝らし過ぎてはいるけれども)おもしろく、後園に通じる木柵と冠木門《かぶきもん》もしゃれたものであり、後園はよく手入れされて、うつろの古木の間にダフォディル、桜草、忘れな草、カーライト(卯の花に似て赤い花)、山吹などが、美しい青芝の上に咲き出ている。シェイクスピアの頃には斯んなによく手入れされていたかどうかは問題であるが、彼のローマンスを飾る背景としては似合わしい手入れの仕方である。
 私たちは詩人自らの秘密の恋の場面をのぞくような好奇心を懐いてコッテイジの中へ入った。女学生らしい見物人が二三人一緒になった。床《ゆか》は石灰石で敷き詰められてあるが、時代がたって、でこぼこしている。台所には古風な大きな炉があり、ドアの隣りは食料品の貯蔵所で、居間の壁際にはひどく擦り減らされた木の腰掛が取りつけてある。此処に「うぶな若者」のウィリアムが八つ年上の農家の処女アンと腕を組み合わせて腰かけている図を描き出して見るとおもしろかった。後ではあらゆる恋の場面を書いたシェイクスピアではあったけれども、その頃は「彼よりも悧巧な」アンの方が恋の手ほどきをしてやったものかと思われる。
 此の家の見物の一つの興味は、三百年前の自作農の生活状態を想像させるのに都合のよい家具類がそのままに保存されてあることで、古い陶器や白鑞《ピューター》の食器のほかに珍らしい革の徳利(牧場用)が天井から下っていたり、二階の寝室には彫のある寝台に「万年|敷布《シーツ》」がまだ昔のまま掛けられてあったり、今から見ると質素ではあるが、当時としては決してちゃち[#「ちゃち」に傍点]な物とは思えない物が多かった。アンの寝台には褥の代りに妹が蘆で編んでやったという茣蓙蒲団が重ねてあり、その上に古びながらもまだ赤い色のあまり褪せてないきれ
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