或いは彼自身役者として其処に立ったこともあったかと思われるが、タオルミーナの劇場は前述の如くディオニュシウス以後のものだけに、ディオニュシウス自身の作品が初めには上演されたのかも知れない。
それはとにかく、タオルミーナの劇場は何よりもすぐれた形勝の位置に置かれてあるのが特長である。大きさはシラクーザの劇場(直径一三四米)には及ばないが、それでも直径一〇九米、オルケストラの直径三五米を数え、シチリア現存劇場中第二位を占め、また、ローマ時代改築の赤煉瓦の舞台建造物が白い列柱と共に遺っているのは、劇場建築史の貴重な資料として見るからに有りがたく感じられるものである。しかし、それにも増して私を感歎せしめたものは、見物席から眺めたそのすばらしい背景だった。私は書物と図面の上ではギリシア劇場の発達の様式は知っていた。それが後期に及んでいかに大掛かりな舞台建造物[#「舞台建造物」に傍点]を持つようになったかも知っていた。けれども、ギリシアでは舞台建造物の実物は見ることができなかったが、今シチリアに来て、目のあたり列拱と列柱を見ていろいろ発明するところがあって、喜ばしかった。その喜ばしさは、道具部屋・楽屋が此の程度まで複雑なものになり、同時にそれが舞台の背景[#「舞台の背景」に傍点]としていかに有効に使用されたであろうかが実感された為のみでなく、その建造物は更に遥かに後方の自然の景観と融合して劇場全体の背景[#「劇場全体の背景」に傍点]としても巧みに利用されていたことを発見したからであった。
私は見物席のいろんな高さに立って眺めて見た。見物席は岩山を彫り刻んで造られた型の如くの半円形階段席であって、どの席からも舞台の後方に海が見え、高い席だけが海を大きく見るようになっている。細長い窓を幾つも持った赤煉瓦の建物の前には大理石のコリントス式円柱が列び、それが舞台の後方から左右に翼を張って、窓の間に、両翼の端に、また高い席から見ると建物の上に、イオニア海の蒼波がひろがって、その上にエトナが雪に蔽われて煙を噴いてる美しさは、近代劇場のいかなる背景も及ばないものである。古代の二万人の観客が此の美しい景観の前に坐って、舞台の上の三人の役者とオルケストラの上の十五人の合唱舞踊者の描き出す形と謡う声を娯しんだ有様を想像すると、パリやローマの夜の室内の演劇からは到底想像もつかないほど、明るい、朗らかな、自由な、健全な空気が漂っていたことが思いやられる。
同じことはシラクーザの劇場でも感じられた筈であったが、其処では舞台建造物が失われていたので、私の貧弱な想像力はそれを実感することができなかった。しかしタオルミーナの劇場と同じく、其処の劇場も山の上に造られ、岩磐を利用した見物席は海の方へ打ち開けていたので、背景活用に類似の創意が働いていたことは推定される。
三
ギリシア劇場の位置は、タオルミーナ第一の展望台となってるほど勝れたもので、殊に座席の最上列に立つと、実地を見ない人には到底想像もつかないほどの大きな美しいパノラマが展開される。東は海で、西は山で、その山の、すぐ目の前にはタオルミーナの古い町がバナナの果実のように断崖の上にかたまり合って、古代の城壁で囲まれ、その一番高い所(三九六米)にアクロポリスと呼ばれた城砦《カステロ》があり、その後の高い所(六三四米)にモラの城砦《カステロ》があり、更にその後にモンテ・ヴェネレの奇峰(八六四米)が聳えている。これ等は鋭い線と複雑な色彩で造り上げられて怪奇な印象を与えるが、それから視野を南へ転じると、その部分の空間は殆んどすべてエトナに独占されている。エトナの遠望は孤立したところは富士に似て居り、その高さ(三三〇〇米)も富士に近いが、富士よりも大きく根を張って、裾野が直接海の中へ走り込んでるのと、残雪の間から噴煙を立てているのがちがう。登って見ると幾つも峰があったり、熔岩流が無数にあったりするけれども、直径二五キロを距てたタオルミーナから眺めると、山容はなだらかな線となって、海の紺碧との調和が譬えようもなく美しい。その海の水平線を辿って北の方へ視線を向けると、其処はメシナの海峡で、晴れた日の午後にはレジオの町まで見えるそうだ。レジオはイタリア半島の長靴の尖にあたる地点で、メシナの対岸である。
私たちは辻馬車に乗ってタオルミーナの町を見て廻った。人口五千足らずの小さい町であるが、町その物がさながら一つの博物館の趣がある。ギリシア時代の遺物としては劇場の外に城壁や城砦があり、下ってはローマ時代・サラセン時代・ノルマン時代と次々の建物が、多くは断片的ながら、繕われて遺って居り、十四世紀のドゥオモ(カテドラレ)や、バディア・ヴェッキオなどが少しも目だって見えないほどに、すべての住宅が皆古物である。町の入口に
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