ヴェルダン
野上豊一郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)流行《はや》る
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]し
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Terre《テル》 de《ド》 Vende'e《ヴァンデェ》〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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一
世界情勢の高速度的推移の中には、今ごろヴェルダンの戦場を見物したりすることを何だか Up−to−date でなく思わせるようなものがある。私たちがヴェルダンに行ったのは咋年(一九三九年)の初夏、まだ今度の大戦の始まらないうちではあったけれども、その時でさえすでに現代から懸け離れた一種の古戦場[#「古戦場」に傍点]でも弔うような気持があった。ところが、それから二三箇月もすると、いよいよ新しい戦争の幕は切って落され、ヴェルダンを古戦場[#「古戦場」に傍点]の如く感じる気持は一層強くなった。
丁度パリに来ていられた姉崎先生をお誘いした時、先生は一九一八年の停戦直後にヴェルダンを訪問されたきりなので、二十年後のヴェルダンがいかに変化しているかに興昧を持っていられるようだった。私たちはヴェルダンは初めてで、ドイツに行っても、イタリアに行っても、フランスでも、イギリスでも、何となしに底気味のわるい空気が漂っていて、いつ戦雲が捲き起らないとも知れなかったので、不安な未来を予想しながら二十年前の世界悲劇の痕迹を踏査することに少からぬ興味を持った。
その日、朝早く、自動車で出かけ、夜に入ってパリに帰りついたのだが、帰りにランスとソアッソンの寺を見ようという計画を立てていたので、ヴェルダンには小半日きりいなかった。それでも自由のきく車で見て廻れたおかげで、遊覧バスなどで見るよりはゆっくり見られた。
パリを出て東へ一直線に駈けらせると三十分ほどでモーの町を通り過ぎた。マルヌ河に沿うた古い町で、パリに供給する小麦・チーズ・卵・家禽・野菜などの多くは此処から運ばれると聞いていたが、通りすがりに一番に目を惹いたものは、街路の左側に高い方塔を一つ聳やかしたゴティク様式の古いカテドラルだった。八百年の星霜を経てどす黒く寂び、雅致を失わない程度にがっちりと力強く立ってる風貌が私たちにしばらく車を停めさせた。覗いて見ると、薄暗い内陣の両側には型の如く天井の一段低い側堂が付いて、外陣は一つきりで、唱歌席の装飾なども簡古で似合わしく思われた。しかし、行手を急いでいて、ゆっくり見ていられなかったから、前の荒物屋みたいた店で絵端書を買って思い出のよすがとすることにした。
それからマルヌを渡り、美しい田舎道を百二三十キロも走ったと思う頃、シャーロンの町を通った。毛織物の名産地で、此処にも古いカテドラルがあるということだったが、目につかないで通り過ぎ、それから先は方向を少し北へ振って行くように道がついていた。レジレットという村のあたりからは樹林が目立って多くなり、道も上ったり下ったり、曲りくねったりして、ショファにはうるさいかも知れないが、見て通る者には今までの平たい郊野よりは趣があってよかった。道の両側には高い並木がつづき、その間から緑の牧場や畑が透いて見えた。
クレルモンの手前で、道ばたの大きな桜の木に長い梯子を二つ掛けて、百姓の親爺と娘がさくらんぼ[#「さくらんぼ」に傍点]をもいでいた。あれを売ってくれないか知らと弥生子がいい出し、車を停めショファに懸け合わせると、やろうというので、銀貨を二つ渡すと、親爺も娘も梯子から下りて、食いきれないほどたくさん籠に入れて持って来た。それを私たちは新聞紙に載せて、膝の上にひろげ、摘まみながら進んだ。日ざしが次第に強くなり、いいかげんに咽喉が渇いて来たのでうまかった。
クレルモンといい、レジレットといい、この辺一帯はアルゴンヌの森林地帯の一部で、大戦の時は一時ドイツ軍に占領されていた土地である。もうヴェルダンの前線までは二十キロあるかないかぐらいだった。
二
ヴェルダンの町に入って第一にする仕事は食事をすませることだった。広い石段の上に戦捷記念塔が高く聳えている。その石段の前にちょっとしたレストランがあった。ヴェルダン見物が流行《はや》ると見えて、中は客で一ぱいだった。
食事がすむと、徒歩で町の見物をした。ヴェルダンはローマ人征服時代からの町だけに、規模は小さいけれども、道が狭く、石畳が古く、坂が多くて、趣がある。ヨーロッパはどこへ行っても古い形がよく保存されていておもしろい。ヴェルダンはローマ帝国の勢力が弛んで後、一時蛮人の侵入を受けて荒らされたが、五世紀以後アウストラシア王国に属していたのを、九世紀になってフランスに併合され、その後、ドイツに占領されたり、その羈絆から脱したり、市民権が強くなってからはローマ法王の勢力に対抗したりしていたが、完全にフランス王権の支配下に帰したのは、ウェストファリア条約(一五五三年)以後のことだった。尤も、その後とてもしばしばドイツ(プロイセン)の勢力に侵されてはいたが。何しろ、パリからは二百五六十キロもあるのに、東はわずか五十キロでドイツに接し、その北には同じ距離でリュクサンブール公国があり、そのすぐ北にはベルジク王国があるといったような辺彊だから、われわれのような孤立した島国に居住してる者には想像もつかないほどの微妙な国際感情が早くから芽生えて発達して来たものらしい。
だから城砦《シタデル》などもなかなか堅固なもので、ヴェルダン城はフランスでも一流の堅城といわれていた。もと十世紀の僧城を改築したもので、南はムューズの河岸に城壁を築き、他の三方には濠を繞らし、高い櫓を立て、日本の封建時代の城を思わせるものがある。中に入ると十世紀の僧城時代の地下窖《クリプト》なども見られるということだが、今は兵営になっていて入ることができなかった。
カテドラルは十三世紀頃かと思われるゴティク様式で、方塔が二つ揃ってどっしりしてるが装飾にはロマネスクの形式が取り入れられた所があるようだった。それよりも気に入ったのは、町の四つの入口に建てられた中世の塔門で、殊に最もよく保存されてるショーセーはその橋と共にヴェルダンを飾る第一の美観である。それが戦火で壊されなかったのは、郊外のスーヴィルからかけて前面幾つもの塁砦がよく護られたからだった。
三
私たちは町の見物をざっとすませると、また車に乗って戦跡巡覧に出かけた。
町の北端でラ・ムューズを横断して少し行くとスーヴィルの村である。此処を最後の塁砦としてヴェルダンは死守された。子供たちが二三人自転車を乗り廻して楽しそうに遊んでいた。村をはずれて右へ折れると、道はどんどん登りになって、ヴェルダンの町が目の下に展開する。道の両側には高さ三メートルばかりの雑木が一面に茂っている。それを見て姉崎先生は感慨に耽っていられた。先生が一九一八年に訪問された時には、此の辺は一木一草もなくなっていたそうだが、二十年の間にひこばえがこれだけに成長したものと見える。尤も、戦争前はこの辺からかけてアルゴンヌまで巨木の大森林だったということではあるが。
車はまず東の端のヴォーの砲塁の前に停まった。白っぽい岩山が低く東西にうねり連り、それを墻壁にして構築された塁砦で、南側には幾つも土窖の口が開いて居り、中には石でテューブ型に畳み上げられた営舎があり、町で買って来た当時の写真で見ると、両側に寝台が二段に組み立てられ、兵士が靴を穿いて外套を被たまま身体を横たえ、銃剣といっしょに鉄兜やガス・マスクを枕もとに置いている。その時の事を案内者の老兵士が私たちを導いて話して聞かした。その頃のフランス軍はひどく強かったものらしく、ヴォーの戦争は一九一六年二月からで、六月に一度ドイツ軍に占領されたのを十月に逆襲し、十一月には完全に奪還した。それが非常に近い距離の間で行われたのだから戦慄すべき肉迫戦が繰り返されたことは実地を見て殊に痛感される。
穴から出て私たちは塁砦の上に攀じ登った。鉄条網の間から赤い芥子《けし》の花が夏草の中に交って咲き出ているのも、血を連想させるというよりはもっと深い意味に於いて美しく感じられた。あたりにはまだ鉄条網が銹びたままで張り残されてあったり、塹壕が草に埋もれて保存されてあったりするのは、戦争の残虐を思い出させる誘導とはなるが、それよりも時[#「時」に傍点]の整理は力強く、自然[#「自然」に傍点]の勢いはすべてのものを復活させ、生[#「生」に傍点]が死を乗り越えて進むことを実感させられることの方が多い。だから私は万里征人未だ還らずといったような感懐よりも、流血の土中から咲き出た一本の芥子の花に永遠の生命の美しさを見て、自然の偉大さを思い、同時に人間の愚かさを感じないわけにはいかなかった。全く、よくも懲りないで侵し合いを繰り返すものだ。三十年を一時代とする習慣は此の節では世界の動きのテンポが速いので二十年を一時代とすることに改めてもよかろう。実際一時代たつと人間の健忘性は過去の痛苦を実感しなくなると見え、誰が始め出すのか知らないが、今にもヴェルダンのような悲劇がどこかでまた起ろうとしてる。そうしてヴェルダンそのものは一つの見せ物として保存され、物ずきな人間たちが、まるで自分たちには拘わりのないことのようなのんきな顔をして見物に出かけているのである。
見物のコースは、ヴォーからもう一度スーヴィルに戻り、北へ東へ回って、今度はドーモンの塁砦に辿りついた。ここはヴォーよりも一段と規模が大きく、穴の中の営舎も数多く、まるで地下街のようだ。感心したことの一つは、どこの穴倉の営舎にも必ず礼拝堂があることで、宗教は近代に入って人の霊魂を支配しなくなったとはいわれるけれども、それでも、カトリックの国々では殊に、宗教から全く絶縁した生活は見られないが、生命を賭けての戦場では一層それが必要されるものと見え、ヴェルダンだけではなく、エスパーニャに行ってトレドーのアルカサルの白軍籠城の営舎を見た時も、其処に礼拝堂を発見して心を動かされたことがあった。若い兵士たちが戦死する時、最後に呼びかける言葉は母の名でなければマリアの名だと聞いている。
ヴェルダンで戦死した兵士たちの共同墓地へ行く途中、大きな瀕死の獅子の彫像を載せた石の台を左に見た。百三十師建設記念碑と銘してあった。ドイツ軍は北方から攻めて来てこの地点から先へは進めなかった。その付近も一面の樹林である。停戦当時は砲火のため樹林は根こそぎ失われてしまい、夥しい戦死者の遺骨と兵器が散乱していたそうだが、今日ではむしろ公園のような外貌を持っている。
戦死者共同墓地は、フランス軍のはシメティエ・ナシオナールという名が付いている。ドーモンの塁砦を東北に見はるかす高地の上に素晴らしく大きな蒲鉾型の納骨堂が横たわり、その中央に高い燈台塔が立っている。そうしてその前面の斜面に白い十字架の墓標が何千か何万か数えきれないほど整然と列んでいるのが、一目に見わたすと、さながらオランダで見たテューリップの畑のようだ。納骨堂の中には、身内の人たちでもあろうか、花などを持った参詣者も少からず見受けられた。
それから西の方へ車を廻わすと、トラセエ・デ・バイオネット(銃剣の塹壕)と呼ばれる記念館がある。コンクリートの廻廊風の建物で、床は塹壕をそのままに残して銃剣が幾つも突き刺さっている。或る物には珠数を掛け、或る物には一枝の花を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]し、また或る物には 〔Terre《テル》 de《ド》 Vende'e《ヴァンデェ》〕(故郷の土)と記した袋に一握りの土を入れ
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