がある。ヨーロッパはどこへ行っても古い形がよく保存されていておもしろい。ヴェルダンはローマ帝国の勢力が弛んで後、一時蛮人の侵入を受けて荒らされたが、五世紀以後アウストラシア王国に属していたのを、九世紀になってフランスに併合され、その後、ドイツに占領されたり、その羈絆から脱したり、市民権が強くなってからはローマ法王の勢力に対抗したりしていたが、完全にフランス王権の支配下に帰したのは、ウェストファリア条約(一五五三年)以後のことだった。尤も、その後とてもしばしばドイツ(プロイセン)の勢力に侵されてはいたが。何しろ、パリからは二百五六十キロもあるのに、東はわずか五十キロでドイツに接し、その北には同じ距離でリュクサンブール公国があり、そのすぐ北にはベルジク王国があるといったような辺彊だから、われわれのような孤立した島国に居住してる者には想像もつかないほどの微妙な国際感情が早くから芽生えて発達して来たものらしい。
 だから城砦《シタデル》などもなかなか堅固なもので、ヴェルダン城はフランスでも一流の堅城といわれていた。もと十世紀の僧城を改築したもので、南はムューズの河岸に城壁を築き、他の三方には濠を繞らし、高い櫓を立て、日本の封建時代の城を思わせるものがある。中に入ると十世紀の僧城時代の地下窖《クリプト》なども見られるということだが、今は兵営になっていて入ることができなかった。
 カテドラルは十三世紀頃かと思われるゴティク様式で、方塔が二つ揃ってどっしりしてるが装飾にはロマネスクの形式が取り入れられた所があるようだった。それよりも気に入ったのは、町の四つの入口に建てられた中世の塔門で、殊に最もよく保存されてるショーセーはその橋と共にヴェルダンを飾る第一の美観である。それが戦火で壊されなかったのは、郊外のスーヴィルからかけて前面幾つもの塁砦がよく護られたからだった。

      三

 私たちは町の見物をざっとすませると、また車に乗って戦跡巡覧に出かけた。
 町の北端でラ・ムューズを横断して少し行くとスーヴィルの村である。此処を最後の塁砦としてヴェルダンは死守された。子供たちが二三人自転車を乗り廻して楽しそうに遊んでいた。村をはずれて右へ折れると、道はどんどん登りになって、ヴェルダンの町が目の下に展開する。道の両側には高さ三メートルばかりの雑木が一面に茂っている。それを見て姉
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