レンブラントの国
野上豊一郎

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(例)きれ[#「きれ」に傍点]
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    一

 オランダには三日半きりいなかったけれども、小さな国だから、毎日車で乗り廻して、それでも見たいと思っていたものはあらかた見てしまった。
 五月一日(一九三九年)の昧爽、フーク・ファン・ホランドに上陸した時の第一印象は、いかにも物静かな、どことなく田舎くさい、いやに平ったい国だという感じだった。前の晩おそく、雨の中をハリッジを出帆して、百五十マイルの航程を七時間、北海の波に揉まれて、それでもどうにか眠ることは眠ったのだが、まだ幾らか寝が足りなかったので、公使館から廻してくれた車を捜すにも寝ぼけ眼だったに相違ない。尤も、捜すとはいっても、埠頭の税関所につづいた停車場の構内には車は二三台しか見えなかったから、わけはなかったのだが。
 フーク・ファン・ホランドから首都ハーグまでは北東へ十マイルそこそこの距離だった。雨あがりの空からは和やかな朝の陽光が沿道の耕地に降りそそぎ、静かな・田園的な・平坦な国土の印象がいつまでもつづいた。ハーグに入ってもその印象は失せなかった。ハーグは十八世紀までは「ヨーロッパ最大の村」といわれた。十九世紀の初葉、オランダ王となったルイ・ボナパルト(ナポレオン一世の弟)に依って都市の特権が与えられ、今日では小さいながら王宮もあれば議会もあるけれども、また、中世以来の旧市街の外に新しい近代都市的区域も出来てはいるけれども、商業がなく、産業がないためか、なんとなく田園的な空気が漂っていて、せいぜい別荘地といったような印象をしか人に与えない。ハーグ den Haag という名前――正しくいえば、S Graven Hage(伯爵の囲い地)――が示す如く、昔は領主(伯爵)の狩猟の足溜まりの場所だったのが、近代に至って政治・外交の中心地となっても、その色彩はずっと褪せなかったものと見える。
 そこへ行くと、アムステルダムとかロッテルダムとかの海港都市は、近世初期のオランダ海運業の隆盛と共に発展した土地だけあって、形貌からいっても実質からいっても、一種の国際都市的特色を持っていて、ある意味ではオランダ的でないといってもよいだろう。
 オランダ的特色というのは、平たい土地に運河が縦横に網を張って、堤防が到る所に築かれ、運河には舟が泛び、町ならば吊橋やはね橋が架けられ、田舎ならばその傍で風車がくるくる廻ってなければならない。そうして、家屋は(都会には例外として六、七階の高層建築も見られるが)概して低く小さく、しかし田舎は田舎なみに飾り立てて、清潔に掃除してあり、風俗は(都会では一般ヨーロッパとあまり変らないけれども)地方では昔ながらの野趣をおびた絵画的の服装が保存されてある。即ち、女は白い蛾の翅のような帽子をかぶり、肩から胸へかけてレイスなどの付いたさまざまな形のきれ[#「きれ」に傍点]を掛けて、スカートの上には赤とか青とか茶とか色とりどりの縞の前垂みたいなものを後《うしろ》へ廻してまとい、女も男も足には大きな木履を穿く。しかし、それ等は都市では今日見られない。今日都市に多く見られるのは自転車で、ハーグでは市民も官吏も自転車が多く、大臣も女王さえも自転車を乗り廻すと聞いた。自転車の数が五十万あるというから、人口の約一〇パーセントは自転車に乗るわけである。土地が平坦なのと国の狭いのがそれに都合がよいからに相違ない。
 一体オランダほど風土が国民の生活に影響を及ぼしてる国はヨーロッパのどこにも見出せない。国内の或る部分では、地面が海面よりも低いので、堤防が到る所に築かれてあることは既に述べたが、その堤防の上には楊柳の枝などをかぶせて泥で固め、それを数年ごとに取り替えねばならないので、その費用だけに年額千五六百万フロリンを支出するそうだ。そういった堤防を必要とする土地が全国の面積の約半分に及んでるということで、オランダの古い諺に「神は海を造った。われわれは陸を造った」というのも、十世紀以来のそういった土木的努力を考えさせるものでなければならぬ。土地が国民の生活を変更したと共に、国民の生活も土地を変更させないでは措かなかった一つの例でそれはある。今一つの例は運河で、これは道路の代用として、また下水の代用として、また都市ではしばしば塀がこいの代用として使用され、都市にも田舎にも無数に開鑿されてあるが、大きいのになると巾十間深さ一間ぐらいのもある。そうして、田舎では、運河の付近には大きな風車が幾つも立っていて、製粉・製材・製紙等に利用されるほかに、低地の水を汲み上げて運河に移す役目をもさせられている。

    二

 オランダのそういった風土的特色は、都市殊にアムステルダムとかロッテルダムとかいったような海港都市ではあまり見られないといったが、それでもレンブラントが一六四〇年に写生したアムステルダムの風景画(エッチング)を見ると、高塔の聳えた建物と並んで大きな風車が幾つも立っていて、前景は水草の生えた沼が荒地の景観を呈している。だから、その頃はオランダが航海と貿易によって富裕になりかけた時代で、アムステルダムなどはすでに国際都市的性質をおびていたといわれるにも拘らず、まだそういった田園的特色が見られていたものと思われる。今日でも、ハーグ、ライデン、ユトレヒト、ハーレムなどでは、大体からいって、町は近代化されてありながらも、なお昔を思わせるものが少なからず残っている。旅行者にとっては、それが大きな魅力である。
 しかし、オランダ人としては、すべての都市が早く近代化して、アムステルダムの如くロッテルダムの如くなることの方が或いは望ましいのではないかとも思える(その証拠には、ハーグの新区域ムッセンベルクの住宅街の如きは、ベルリンの郊外にでも行ったような新様式の機構を持っている)が、旅行者としては、世界のどこででも見られるようなそんなものには興味は感じない。やはりオランダではオランダ的な物が見たい。同じことが日本を訪問する外国人旅行者の口から聞かれるのを私たちは知っている。東京のような近代都市は別として、京都とか奈良とかの千年以上の伝統を持った旧都では、趣のある古いものをむざむざと壊して安っぽい新しいものに取り替えるような心なき企を、妄《みだ》りにやってもらいたくないと希望するのは、ひとり外国人のみではないだろう。同じ意味で、オランダ人の中にもハーグやライデンやユトレヒトなどをば純粋にオランダ的に保存したいと熱望する者が少ないと聞いた。実際、世界中どこへ行っても似たり寄ったりの景観を持つようになったら、旅行の興味は恐らく半分以上なくなってしまうだろう。
 その点、ヨーロッパでおよそベルリンぐらいおもしろくない都市は少ないといってもよい。街衢《がいく》はよく整頓され、家屋も道路も清潔に保たれてはあるが、なんだか方程式を見るような都市で、それ以上でもなければ、それ以下でもない。旅行者としては、むしろ、割り切れないものにぶっ突かった方が興味がある。同じドイツの都市にしても、ハイデルベルヒとかフランクフルト・アム・マインとかニュルンベルヒとかになると、十分に旅行者を楽しませるものがあるけれども。
 オランダも大体において旅行者を楽しませるものを持っている。殊に私たちの行った時は、春が酣《たけな》わになりかけて、気候はよく、木木は芽を吹き、花は蕾を破って、どこを見ても美しく、ハーグも、ライデンも、ユトレヒトも皆美しかったが、殊にハーグからライデンへドライブした時に通った沿道の花畠の美しさは決して他国では見られないものだった。それはテューリップ畠と、アネモネ畠でひろびろとした耕地の間に途方もなく大きな毛氈を敷きひろげたように、しかも、このテューリップ畠は赤は赤一色、黄は黄一色、白は白一色で、中に紫はアネモネの花畠だった。このテューリップの大量栽培は、花は剪《き》ってロンドン、パリ、ベルリン等へ出すが、目的は球根をアメリカへ輸出するためである。
 しかし、テューリップもアネモネも美しければ、バタ・チーズ・野菜・卵等の産出も多量であれば、また風車もおもしろければ、運河・堤防も珍らしかったが、それ等にもまして私にいつまでも忘られない印象を与えたものはオランダの絵画であった。殊にレンブラントの作品であった。

    三

 レンブラントとかフランス・ハルスとかヤン・ステーンとかを除けば、正直にいうと、私はオランダの絵画についてあまり多く知らなかった。ロンドンの博物館で初めて多くの実物に接し、後ではパリでもベルリンでもミュンヒェンでも数多くオランダの画を見る機会を持ったが、しかし、最も系統的に且つしみじみとそれ等に親しむことのできたのはオランダの博物館であった。殊にハーグのマウリツハウスとアムステルダムの国立博物館《リイクスムゼウム》であった。
 一般的に見て、オランダの画は目立って手堅い写実の基礎の上で発達している。一方では風景・静物などの地味な画題をいかにも細かく精密に写生してるかと思うと、また一方では風俗画ともいうべき種類のものを多少のヒューマーを交えながら巧みに描き出している。そうして、概して小さい作品が多く、中には微細画《ミニアチャー》といえるような作品も少くない。そういった行き方が流行したというのも、主として国民性と国情に因るものであって、オランダがヨーロッパの北に偏したテュートン民族の国であり、新教の国であることを考えると、また、近代に入って科学が逸早く発達し、同時に実際主義的思想が行き亘り、経済的には交通貿易の隆盛と共に富裕になった国であることを考えると、その美術がロマンティクな奔放に飛躍せず、神秘的な晦渋に偏せず、情緒的な滲泄を見せないのもむしろ当然であり、どこまでも堅実な写実主義の苗床であった理由が理解される。そうして、その苗床で成長した最大の樹木こそレンブラント・ハルメンス・ファン・レイン(一六〇六ー六九)だったのである。
 レンブラントを十五歳の年長者なる同時代のルーベンスに比較すると、同じネーデルランドの画家でありながら、何と相違のあることだろう。前者はどこまでも地道な写実主義から出発して、執拗にその道から踏み出すまいとかじりついているに対し、後者は奔放自在に筆を駆使して天に登ったり地にもぐったりして端倪を知らざるものがある。どちらも抜群の色彩家ではあるが、前者は暗褐色の主調を最後まで守り通しており、後者は赤赤とした鮮明な絵の具を吝みなくぬたくり附けて、途方もなく大きなカンヴァスの上にはちきれそうな肉体を無数に列べ立てて居る。どちらも比類なき技術家ではあるが、前者はその技術が技術以上のものを描き出し、人間の魂の姿を見せる高さにまで達しているに対し、後者はややもすれば腕にまかせて技術をひけらかそうとする野心が鼻につく。そんな意味で私はルーベンスの画はヨーロッパの到る所でまたかと思うほど数多く見せられたが、正直にいうと、最後まで馴染まなかった。尤も、ルーベンスは前古未曾有の流行児で、各国の宮廷貴族からいつも注文が殺到し、生涯に二千以上の作品を製造するにも多くの弟子の手を使ったことは確実であるから、彼の真の技術を調べるには限られた少数の作品にのみついて見るべきであるが、それ等について見ても私の趣味は遂に彼に親しみを感じることができなかった。そこへ行くと、レンブラントは、写生や習作の端に到るまで、どの一枚の画にも足を留めて仔細に凝視させないでは措かない魅力を持っている。

    四

 レンブラントはライデンの貧しい粉屋の四番目の息子に生れ、風車で揺れる小さい部屋の中で、子供の頃から父や母や妹をモデルにしたり、自分の顔をモデルにしたりして、画ばかり描いていた。初めは教師に就いたこともあり、先輩の作品を模写したこともあり、イタリアの作品はあまり
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