彼に訴えなかったようであるが、ルーベンスは或る時期には相当に彼を動かし、いつもルーベンスのことを考えていたようである。けれども、ルーベンスとはおよそ反対の行き方をするようになった。というのは、彼のあたまの中にもやもやしていたものを表現するには、他人の表現法では間に合わないことをはっきりと自覚したからである。それで、彼は自然を師として彼自身の表現法を発明した。形を正確に造り出して色と光で調子を出すことについての独得の表現法である。それは彼にとって生涯の研究問題であった。もちろん技術の問題ではあったが、それを指導するものは彼の心の内奥に燃えさかる人間知に対する探究の情熱であった。彼を遂に美術史上に於ける最も特色ある偉大な芸術家として造り上げた情熱であった。彼が「オランダのシェイクスピア」といわれるのも、その点で頗る適切な評語である。
 シェイクスピアはストラトフォド・オン・エイヴォンの雑穀肉屋の息子に生れ、ろくに学校生活もしないで、あれだけの人間学を独力で世間から習得し、大学などでは到底学び取ることのできない才能を以って、世にも稀な芸術品を数多く作り上げた。レンブラントも少年の頃文法学校に通ったきりで、父は犠牲を払っても四男だけはライデンの大学に入れたいと思っていたけれども、彼の情熱は画のこと以外には向かなかったから、父の希望を満足させることはできなかった。彼は二十五の年にアムステルダム――国際都市として膨脹しつつあったアムステルダムへ出て、職業的画家の生活に入った。
 オランダでは事業に成功した者や職業組合が、貴族のするように、画家に自分たちの肖像を描かせる風習があった。若いレンブラントにも注文が殺到した。彼は忽ち有名になり、美しいサスキアを妻に持ち、金は手に入るにまかせて荒く使った。殊に諸国から輸入された美術品・骨董類をめちゃくちゃに買い込んだ。まるで自分の家を博物館にするのではないかと思われたほどだった。結婚して八年目に妻のサスキアは死んだ。一人の息子を残して。その頃からレンブラントの名声は次第に落ちて行った。彼の芸術心が世俗の要求を十分に充たしてやるように彼を努力させなかったからであった。彼は貧苦と戦わねばならなくなった。彼は絵筆の代りにエッチングの針を持つことの方が多くなった。年若い無教養の女中ヘンドリキエ・ストッフェルスと同棲して、世間から全く隔絶されるよう
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