「漱石のオセロ」はしがき
野上豐一郎
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はしがき
これは故夏目金之助先生が明治三十八年九月から東京帝國大學文科大學英文學科の講義として讀まれた Othello の筆記である。先生の Shakespeare の講義は、今一つの文學史の講義と同樣に、一週三時間であつた。私は、明治四十年三月に先生が大學をやめられるまで、Othello の外に尚ほ The Tempest と The Merchant of Venice と Romeo and Juliet を聽いた。少くとも先生の講義に對しては、私は忠實なる一學生であつた。その講義が、いかに先生獨得のものであり、いかに批評的であり、またいかに暗示的であつて私を動かしたかを、決して忘れない。震災でこはれて燒けた赤い煉瓦のゴシックの建物の中の第二十番教室であつた。その薄暗い教室はいつも聽講者で一ぱいであつた。私はその片隅の机に向つて、Cassell 版の小さいポケット本を開き、先生の口から洩れる一言半句をも聞き落すまいと全身を耳にした。先生は多くの訓詁註解者の上に立つて全然自分一箇のあたまで批判しようとしてゐたらしい。Furness の集註本を唯一無二の金科玉條と心得てゐた私たちにとつて、それは一つの驚異であつた。その解釋と批評の言葉がそれきり空間に消えてしまふのが限りなく惜まれた。私はペンを走らして出來るだけその言葉を Text の間に書き留めて置いた。それが此の筆記である。併し私のあたまは主として原文を理解する事の方へ向つてゐなければならなかつた。だから書き留め得たものは、先生の口を洩れたものの果して何分の一に過ぎなかつたであらう。今久しぶりに取り出して見て、殊にさう感じられる。まだいろいろあつたやうにも思はれるが、今更どうすることも出來ない。だが、これだけでも、讀んで見ると、私には、すでにおぼろげになつた記憶の間からさまざまの影像が浮かみ出して來て、その時感じたであらうやうな暗示を感じることが出來る。それと同じやうな印象を、此の書の讀者に、私の不完全なる筆記が若し與へることが出來て、漱石先生の特異なる表現の幾分かをでも再現せしめることが出來るならば、私としては
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