C家にてはこれを以て忍び難き侮辱となし親戚知己を集めて復讐の策を講ぜり、席に連れるモスカこの時辯をふるつて破約者の殺害を説き議ここに一決す
ブオンデルモンテ殺害せられこの報全市に傳はるに及びて事態いよ/\紛亂し市民のうち或者は殺害者に與してギベルリニ黨となり或者は被害者に加擔してグエルフィ黨となりかくて兩黨相軋轢し禍亂長く盡きざるに至れるなり
【事行はれて輙ち成る】Capo ha cosa fatta 事一度行はるればまたいかんともしがたし、進んで事を成せさらば好結果を生ぜん、換言すればブオンデルモンテを殺せさらば一切の解決を見ん
【トスカーナ】兩黨の爭ひはフィレンツェよりトスカーナ州の各地にひろまれり
一〇九―一一一
【宗族の死】一二五八年ロムベルティ家は他のギベルリニと共にフィレンツェを逐はれ再び歸ることをえず遂にはその消息を知るものすらなきにいたれるなり
一二四―一二六
體は己の爲に己の一部なる首を燈となせり(目ありて前を見分くればなり)されば體と首とは二にして一、一にして二なり、かゝる不思議のいかでありうべきやはたゞ神のみ知りたまふ
一三三―一三五
【ベルトラム・ダル・ボルニオ】ベルトランド・デル・ボルン。フランスのペリゴー(當時英領)の貴族にてオートフォルの城主(地、二九・二九)なり、十二世紀の半の人、英王ヘンリー二世(一一三三―一一八九年)の長子ヘンリー(一一五五―一一八三年)に説きてその父に叛かしむ、子死して後父の補ふるところとなりしも赦されて僧となりその身を終ふ
【若き王】ヘンリー二世の長子ヘンリー。父の在世中兩度まで戴冠式を行へるためフランスにてもイタリアにても若き王として知られたりきといふ
異本、王ジョヴァンニ(ジョン)とありて謄寫本多く之によれりといふ、この異本と本文との比較につき委しく知らんと欲する人は異本を可とするスカルタッツィニ不可とするムーア(『用語批判』三四四―五一頁)の説を參照せらるべし、王ジョンはヘンリー二世の末子にて一一九九年より一二一六年までイギリス王たり
一三六―一四一
【アーキトフェル】イスラエル王ダヴィーデの議官、王子アブサロムの反逆を助けこれに授くるに父を殺すの謀を以てす(サムエル後、一五・一二以下、一六・一五以下、一七・一以下)
【根元】脊髓


    第二十九曲

ダンテ、ウェルギリウスと第九嚢を去り第十嚢の橋を
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