、且つこれを冷笑しているものと見るべきである。かかる残忍大胆なる犯行を防止し得ない警察当局は、ソモソモの責任をどこに持って行こうと思っているのか……といったような激越な論調で結んでいるのであった。
睦田老人は病人のように青褪《あおざ》めたまま事務室をよろめき出た。事件後間もない或る夕方のこと、小雨の降る中を人知れず、倉川家の門前に行って、心からお詫びをした時と同じ気持になりながら……そうして今となっては同じようなお詫びをイクラ繰返しても追付かなくなった彼自身の無能な立場に気付きながら……。
睦田老人はそれ以来、事務室へ新聞を読みに行かなくなった。五つ六つ読みかけている続きものの後段が、たまらなく気にかかるにはかかったが、しかしその間に又もや挟まれているかも知れない二人組の黒装束の記事のことを考えると、二の足を踏まずにはいられないのであった。
彼は今日も新聞を読みに行きたいのをジッと我慢しいしい門衛の部屋に腰をかけながら、ボンヤリと火鉢に当っていた。お天気がいいので急に殖えて来た蠅《はえ》が二三匹、ブルブルンと這いまわっている汚れた硝子《ガラス》戸を見詰めていた。
門の前の空地の向うには、大きなS製薬会社のコンクリート壁が屹立《きった》っていて、ルンペンが三人ほど倚《よ》りかかっていた。そこは日当りがいいし、交番から遠くもあったので、いつも一人か二人のルンペンが居ないことはなかった。その姿を見ると彼は、いつも自分の境遇に引き較べて、儚《はかな》い優越感を感じながら、心持ちだけ救われたようなタメ息をするのであった。
今も睦田老人は、そうした気持で何気なく、そんなルンペン達を眺めていたのであったが、そのうちに中央《まんなか》の一人が妙な手付きをして煙草を吸っているのに気が付くと、睦田老人は、その青白く曇った眼を急にギョロギョロと廻転させた。慌ててポケットをかい探りながら老眼鏡をかけた。
ズット前から、度が弱くなっていた古い鉄縁《てつぶち》の老眼鏡は、ちょうどそこいらに焦点が合うらしく、その鬚《ひげ》だらけのルンペンの口元がよくわかった。
そのルンペンは、よく新聞や雑誌に出て来る外国の大政治家のように荘重な眼付をした、堂々たる鬚男であったが、どこかそこいらの道傍《みちばた》から引抜いて来たらしい細い草の茎《くき》を折曲げた間に、短かい金口の煙草を挟んで、さも大切そうに吸っているのであった。
睦田老人は思い出した。ちょうど一年前に巡廻したあの寒い真夜中の出来事を……。自分が踏み潰した金口煙草の吸いさしの形を……。そうして死んだ倉川夫人の白い、美しい笑顔を……。
睦田老人は、思わず椅子から腰を浮かしながら、黒い詰襟《つめえり》のフックをかけ直した。それは肥満した彼が、事件で出動する度毎《たびごと》にいつも繰返した昔の癖であったが……。
門衛の部屋から出て来る制服制帽の彼を見ると、ルンペンの中の二人は追い払われるのかと思ったらしく逃げ腰になった。しかし真中の鬚男だけは、なおも金口煙草に気を取られているらしく片眼をつぶって、唇を横すじかいにしいしいプカプカと紫色の煙を吸い味わっていた。
睦田老人は、わざとニコニコしながらその前に近付いて行った。今朝《けさ》、職工長から貰ったカメリヤの袋の中から三本を抜き出して、掌《てのひら》の上に載せながら……。
彼のそうした態度を見ると、三人のルンペンが急に帽子に手をかけてヒョコヒョコとお辞儀をした。
睦田老人は一世一代の名探偵になったような気持ちがした。心安そうに三人の間に並んで壁に倚《よ》りかかりながら、出来るだけ巡査口調を出さないようにして話しかけた。地面に投棄てられた金口の煙草を指しながら……。
「そんな金口は、どこから拾って来るかね」
「コレケ」
と鬚男は破れたゴム靴の片足で、その煙草を踏み付けながら答えた。
「これあ盛り場から拾《ひ》らって来《く》んだ。別荘町だら長《なげ》えのが落ちてるッテッケンド、俺《おら》、行ったコタネエ」
鬚男は腹からのルンペンらしく、彼等特有の突ッケンドンな早口で、彼等特有の階級を無視したルンペン語を使った。巡査時代に乞食を取調べた経験を持っている睦田老人でなかったら、到底聞き分けることが不可能であったろう。睦田老人は何となく胸の躍るのを禁ずる事が出来なかった。
「フーム。君たちの仲間で、わざわざ別荘地へ金口を拾いに行く者があるかね」
「居《い》ッコタ居《い》ッケンド、そんな奴等、テエゲ荒稼ぎダア。コットラ温柔《おとな》しいもんだ……ヘヘヘ……」
鬚男は黄色い健康な歯を剥出《むきだ》しながら、工場《こうば》の上の青空を凝視した。
睦田老人は強《し》いてニコニコ顔を作ろうと努力したが出来なかった。顔面の筋肉が剛《こ》わばってしまって、変な泣き顔みたようなものになってしまったことを意識した。
「フーン。荒稼ぎというと泥棒でもやるのかね」
「何だってすらア。本職に雇われて見張りでもすれあ十日ぐれ極楽ダア。トッ捕まってもブタ箱だカンナ」
「ウーム。中には本職に出世する者も居るだろうな」
「たまにゃ居るさ。去年まで一緒に稼いだタンシューなんざ、品川の女郎《アマッペ》引かして、神戸へ飛んだっチ位だ」
「……ナニ……何という……神戸へ……」
睦田老人の声が突然にシャガレたので、三人のルンペンたちが妙な顔をして振向いた。睦田老人は慌てて顔を撫でまわしたが、その時に自分の額がジットリと汗ばんでいるのに気が付いた。彼はわざとらしい咳払いを一つした。
「フムー。エライ出世をしたもんだな」
「ウン。野郎……元ッカラ本職だったかも知んねッテ皆《みんな》、左様《せい》云ってッケンド……いつも仕事をブッタクリやがった癖に挨拶もしねえで消《け》えちまった罰当《ばちあた》りだあ。今にキット捕まるにきまってら」
「フーン。ヒドイ奴だな、タンシューッて奴は……」
「丹六って奴でさ。捕まったら警察で半殺しにされるんでしょう……ネエ旦那……」
「……そ……そうとも限らないが、人を殺したら死刑になるだろう」
「ブルブル。真平《まっぴら》だ。危ねえ思いするより、この方が楽だあネエ旦那ア……」
「そうともそうとも。しかし……その男……丹六とかいう男は人を殺したのかね」
「……………」
鬚男は返事をしなかった。ビックリしたように眼をマン円《まる》く見開いて睦田老人の顔を見たが、忽ち首をキュッと縮めて、眼をシッカリと閉じて、長い舌を、ペロリと鬚の間から出した。……と思うと一瞬間にモトの表情に帰って眼を剥《む》き出しながら、
「エヘヘヘヘ……」
と卑《いや》しい笑い方をした。
そんな表情を見たことのない睦田老人は、思わずゾーッとさせられた。しかし一生懸命に注意力を緊張さしていたおかげで、その表情の意味だけは、わかり過ぎる位わかった。そうして吾《われ》知らずカーッと上気したまま、鬚男の笑い顔を穴の明《あ》く程、凝視したのであった。
それから十分と経たないうちにタッタ一通話の市外電話を受取った警視庁は俄然として極度の緊張振りを示した。
すぐに刑事を製作所に走らして、まだ日陽《ひなた》ボッコをしていたルンペンの鬚男を引致《いんち》すると同時に、睦田老人を召喚して立会わせながら厳重な取調べを行う一方に、別の刑事を飛ばして、品川の女郎屋をシラミ潰しに調べ上げると、鬚男が話した通りの人相の男が、昨年の暮に落籍《ひか》した女の写真が手に入った。……と……その夜のうちに二人の敏腕な刑事が、鬚を剃らして変装さしたルンペンと、女の写真を護って、大阪に急行したのであった。
それから、ちょうど二週間目の夕刊には東京、大阪とも同時に、二人組の強盗が捕まったことを特号標題で報道した。
尤《もっと》も京阪地方の新聞の大多数は、犯人の足が、意外なところから付いたように書立てていた。つまり被害者の家《うち》には申合わせたようにS・S式軽油ストーブが在ったところから、もしやと思って京阪神地方の煖房具店を調査すると果せる哉《かな》、東京から廻送して来た写真の女が開いている軽油ストーブ店が三の宮で発見されると同時に、その店の主人と雇男《やといおとこ》が犯人に相違ないことが判明したものである。しかもこれを白昼に襲撃して一挙に三人を逮捕することが出来たのは、何といっても当局の偉功であると、極力賞讃しているのであったが、これに対して東京の新聞は申合わせたように事件の殊勲者たる睦田老人の事ばかりを主として、堂々たる写真入りで掲載していたので、両方の新聞を読んだ人は思わず微苦笑させられたのであった。
警視庁に呼出された睦田元巡査は、総監以下、各係長、新聞社員等の立会の上で、倉川男爵の手から三千円の懸賞金を授けられたが、七ツ下りの紋付袴《もんつきはかま》を着けた彼は殆んど歩く力もないくらい青ざめていた。
それでも辛《かろ》うじて床の上を前の方によろめき出ながら、男爵の感謝の言葉を受けるには受けたが、同時に自分の失態の代償として、大枚のお金を受取る心苦しさを云おうとして云い得なかった彼は、顔の筋肉をヒクヒクと引釣《ひきつ》らせながら、涙をダラダラと流して男爵の顔を見上げた。そうしてトウトウお礼の言葉さえ云い得ないまま、唇を二三度震わしただけで、覚束《おぼつか》ない廻れ右をして引退《ひきさが》ろうとすると、その時に立会っていた総監が、自分の手で渡すべく準備していた金一封を取上げて、
「まだありますぞ……」
と呼び止めた。
その声と同時に睦田老人は、ストンと尻餅を突いて気絶してしまった。
底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年10月22日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年10月24日作成
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