、決して人間界に於てこの声を発せず、換言すれば深山幽谷に去って哀猿悲鳥を共として吟ずるか、もしくは環海の孤島に退いて狂瀾怒濤に向って号叫すべしである。思えば吾輩も飛んでもない道楽を始めたものだ。

     謡曲の廃物利用の事

 この、下手謡曲に限って聞かせたい、又その相手は聞きたくないという心理状態は、近頃のように謡曲隆盛の昭代にその到る処深刻に又痛切に繰り返し繰り返し経験されて、恰《あたか》も欧州戦前のバルカンの如く、日露戦前の竜岩浦《りゅうがんぽ》の如く、如何なる名外交家と雖《いえど》も後《しりえ》に瞠若《どうじゃく》たらしむる底《てい》の難解問題となっているのであるが、併し又世上にはこの外交上の大難問題を丸一《まるいち》の大神楽《だいかぐら》の如く自由に操縦して、逆に外交上の便宜に利用し、銀山鉄壁の如き上官、重役の威厳を指呼の間に土崩瓦解せしめ、又は槓杆《てこ》でも動かぬ長尻の訪客を咄嗟の間に紙片のように掃き出して終《しま》うという辣腕《らつわん》家が時あってか出頭して、人天の眼を眩ぜしむるには驚かされるのである。
 正に毒草を変じて薬となし、糞土を烹《に》て醍醐をなす底《てい》の怪手腕と称すべしで、謡曲の教外別伝の極地、声色の境界を超越した、玄中の玄曲を識得した英霊漢というべしである。かくの如きに到っては、到底吾人|味噌粕輩《みそかすはい》は申すに及ばず、斯道五流の大家と雖も倒退三千里で、畢竟《ひっきょう》百説《ひゃくせつ》不会《ふえ》只《ただ》識者《しきしゃ》の知に任せ、達者の用に委《まか》して、遥《はるか》に三拝九拝して退くより他に途《みち》はないのである。

     聴き手は注意して択《えら》むべき事

 自分も実は大の聴聞脅迫党で、今まで随分謡曲嫌いを製造した覚えがあるが、ここに只一つ無類飛び切りの謡曲好きに出会《でくわ》して、却《かえっ》てヘトヘトに悩まされて懲《こ》り懲《ご》りした珍談がある。その謡い好きというのは拙者の祖母で、今年九十三歳になって中風の気味で郷里福岡の片傍《かたほと》りの伯父の家に寝ているのであるが、これをこの間久方振りに帰郷した時見舞いに行って見ると、折節《おりふし》伯父伯母は下女を残して外出の留守で、小供は皆学校に行っているし、祖母は只一人奥の六畳に霞んだ眼をして寝ているところであった。拙者は兼てから祖母が非常に記憶力が減退していると聞いていたが、会って見ると左程でもなく、よく拙者を記憶していて、いつ東京から帰ったかとか、幾つになったかとか、嫁はまだ貰わぬかなど聞いた。そうして最後に、
「妾《わたし》も最早《もはや》余程長い事こうやっていて退屈してなあ」
 と云った。この時に自分は不図《ふと》この祖母が謡い好きであった事を思い出して、忽ち胸中に湧き出した野心が半天に漲《みなぎ》り渡ると、思い切って独逸流に、
「お祖母《ばあ》様。私は東京に行って謡いを稽古して来ました。御退屈なら伯父が帰るまでに一ツ謡って見ましょうか」
 と切り出した。その時の祖母の喜びようと来たら全く地獄で仏に会ったようであったが、自分も亦《また》御同様で全くこの祖母を拝みたい位に思ったのである。
「併《しか》し何を謡いましょうか」
 と尋ねて見ると、祖母はその濁った眼を天井に放ってしきりに考えている様子であったが、
「ああ、それそれ、死んだ爺さんが謡い御座った、あの、それ……四方にパッと散るかと見えてというあれを」
「富士太鼓ですか」
「それそれ、その富士太鼓――」
 果然、富士太鼓は拙者の得意の出し物であった。今は何条猶予すべき、直ぐに偉容を張って謡い了《おわ》ったが、我れながら会心の出来で、殊に、
「乱れ髪乱れ笠、思いはいつか忘れむと」
 のあたり、即座に天関《てんかん》地軸を撲落して、唯一人の美人を天の一方に仰ぐような心地がした。祖母も余程感に堪えた様子で、二ツ切りの手拭を顔に押し当てて涙を拭いながら、
「ああ、久し振りで面白かった。死んだ爺さんが生きて御座ったらなあ……。今一つ聞かせて」
 と云った。拙者はこの言葉を聞いて正直のところ涙が出そうであった。自分が謡曲を始めてから今日までこれ位に感動を他人に与えた事はないので、全く自他の本懐といい祖母への孝養といい申し分のない大成功であった。ところが扨《さて》、
「今度は何を謡いましょう」
 と尋ねて見ると、祖母は又もや涙を拭いながら、
「お前はあの富士太鼓を知っていなさるかの」
 と云った。自分は聊《いささ》か驚いて、
「今うたいましたよ、それは」
「何をば」
「その富士太鼓をです」
「ああ、その富士太鼓富士太鼓。妾はようよう思い出した。死んだ爺さんはそれが大好きで、毎日毎日謡い御座った。あれを一ツ」
 これには自分も全くうんざりして終《しま》った。真逆《
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