ブランブランになっているのが幽霊以上の恐ろしいものに見えた。
五連発を取出す間もなく二三歩進み出た私は、何やら狂気のように大喝した。すると二人は、無言のまま私の左右を通り抜けて扉《ドア》の方に行った。それと同時に私は無我夢中で室《へや》の奥に突進して、今まで二人が立っていた寝台《ベッド》の前に来た。
入口に並んだ二人は、私の顔にマトモな冷たい一瞥《いちべつ》を与えた。それから頬に傷をした水兵が、最前の通りに妙な、笑顔とも付かない笑顔を見せながら、静かな声で云った。
「この船はモウ沈みます。船長が馬鹿だったのです」
私はその言葉の意味を考えたが、そのうちに二人は、今|閉《し》めたばかりの扉《ドア》を、音もなく開いて出て行った。
私も続いて出た。氷嚢《ひょうのう》を掴んで悶《もだ》え狂う水夫長を手早く閉め込んで鍵をかけた、氷のような汗がパラパラと手の甲に滴《したた》り落ちた。
しかし私は屁古垂《へこた》れなかった。なおも二人の跡を逐《お》うて船首の方へ行こうとすると、出会い頭《がしら》に二等運転手が船橋《ブリッジ》から駈け降りて来た。見るとこれも顔の色を変えている。
「……今君の室《へや》へ……例の二人が……来たでしょう」
私は黙って二人が立ち去った舳《トップ》の方向を指《ゆびさ》した。
今から考えてみるとこの時に船は、スピードをグッと落していたらしい。風に捲き落された煙が下甲板一パイに漲《みなぎ》っていたが、その中で二等運転手が、突然に鋭い呼子笛《よびこ》を吹くと、待ち構えていたらしい人影がそこここから、煙を押し分けるようにして出て来た。船長、一等運転手、賄長《まかないちょう》、屈強の水夫、火夫、等々々、只、機関長だけは居なかったようである。皆、手に手にピストルだの、スパナだの、ロープの切端《きれはし》だのを持っていた。その十四五人が、逆風と潮飛沫《しおしぶき》の中をよろめきながら船首まで行ったのは、私が扉《ドア》に鍵をかけてから三十秒と経たない中《うち》であった。
風が千切《ちぎ》れる程、吹き募っていた。切れ切れに渦巻き飛ぶ雲の間から、満月が時々洩れ出した。その光りで船首に近い海の上に二つの死骸の袋がポッカリと並んで浮いているのが見えた。
皆はあらん限りの弾丸を撃ちかけた。そうして、とうとう二つの袋が波の間に沈んで見えなくなると皆、ホッとして顔を見合わせた。
云い知れぬ恐怖が船全体に満ち満ちた。
眼のまわる程忙がしいのをソッチ除《の》けにして、あらん限りの火薬を集めて、あらん限りの爆竹が作られた。船員の中で出られる限りの者は皆、船首に集まって手に手に爆竹を鳴らしながら二人の霊を慰めた。
潮飛沫《しおしぶき》に濡れたのはそのまま海に投込んだ。空砲も打った。短銃《ピストル》も放った。
その音は轟々と吹く風に吹き散らされ、※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]々《どうどう》と崩れる波に入り乱れて物凄い限りを極めた。
けれども、結局この船に付いた怪痴《けち》を払い除ける事は出来なかったらしい。
出帆してから一週間目に来た、その大|時化《しけ》の最高潮に、メイン・マストも、舵《かじ》も、ボートも、皆遣られた丸坊主のピニエス・ペンドル号は、毅然としている船長と、瀕死の水夫長と、狼狽している船員を載せたまま、グングンと吹き流され始めた。そうして一日一夜の後《のち》に、どこともわからない海岸に吹き付けられて難破してしまった。
私は水夫長の救命胴着《コルク・チョッキ》を身に着けて、真暗な舷側から身を躍らせた。
それから暫くの間暗黒の海上を、陸地らしい方向へ一生懸命に泳いでいるつもりであったが、やがて、腕に火が付いたような感じがしたのでビックリして眼を開いてみると、意外にも私は、一等船室らしい見事なベッドの中に、リンネルの寝間着《ねまき》に包まれて寝かされている。その二の腕に出来た原因不明の擦過傷《すりきず》を、黒いアゴヒゲを生《は》やした医者らしい男が、
「……静かに……静かに……」
と云いながら叮嚀に拭き浄めているのであった。
その男が使う独逸《ドイツ》ナマリの英語は実にわかりにくくて弱った。しかし大体の要点だけは、暫く話しているうちにヤッと呑み込めた。
この男はこの船の船医で、ブーレーというミュンヘン出のドクトルであった。船は昨日《きのう》香港を出て来たばかりのクライデウォルフ号という七千|噸《トン》級の独逸汽船で、長崎から横浜へまわる客船《メイルボート》であったが、今朝《けさ》早く浪《なみ》の間を転々《ロール》している私を助け上げてみると、宝石や札束を詰めた自転車のチューブを、胴体一面に巻き付けていたので、皆ビックリさせられた。しかし相当の身なりをしていたし、領事の名刺や手紙などを、旅行免状《パスポート》と一所《いっしょ》に、チャント肌身に付けていたので、然るべき身分の者と思われたらしく、何もかも大切に……蘇蘭《スコットランド》製のコルク・チョッキまでも一緒にして事務長の手に保管して在るから、安心して養生なさい……と云うのであった。
私はそれから急に元気付いた。
ブーレー博士が質問するまにまにポツポツと遭難談を初めたものであるが、話が二人の水夫の幽霊のところまで来ると、不思議にもブーレー博士が一層熱心になって、鼻眼鏡をかけ直しかけ直し謹聴してくれた。そうして話が終ると、ボーイが持って来た美味《うま》い玉子酒をすすめながらコンナ事を云い出した。
「……ヤ……お疲れでしたろう……ところで私はこうして船医を専門にする片手間に、海上の迷信を研究している者ですが……既に二三の著書も刊行しているような次第ですが……その中でも貴方《あなた》のような体験は実に珍らしい実例であると信じます。その幻覚と、現実との重なり合いが劇的にシックリしているばかりでなく、色々な印象が細かい処まで非常にハッキリしている点が、特に面白い参考材料であると思います。……勿論……その幽霊の正体なるものは、学理的立場から見ますと、極めて簡単明瞭なものに過ぎないのですが……」
「……エッ……簡単明瞭……」
と私は思わず叫び出した。流石《さすが》は独逸の学者だけあると感心しながら……。
ブーレー博士は厳《おご》そかにうなずいた。
「……そうです。極めて簡単明瞭な現象に過ぎないのです。お話のような幽霊現象は、遭難海員が屡々《しばしば》体験するところですが、実は、その遭難当時に感得した、一種の幻覚錯覚に外ならないのです」
「……というと……ドンナ事になるのですか」
「……という理由は外《ほか》でもありません。貴方《あなた》はこの船に救い上げられる前後に、暫くの間失神状態に陥っておられたでしょう。現にこのベッドの上に寝られてから今までの間でも、既に九時間以上を経過しておられるのですがね」
「九時間……」
「そうです。……ですから……その間に貴方の脳髄が描き出した夢が、貴方の現実の記憶と交錯したまま、貴方の記憶の中に重なり合って焼き付けられてしまったのです。ちょうど写真の二重曝露式に、シックリとネ……勿論それは極度の疲労と衰弱の結果であることが、学理的に証明出来るのですが……」
「……プッ……バ……馬鹿なッ……」
と叫びながら私は起き上ろうとした。トタンに口の中の玉子酒に噎《む》せ返りながらモウ一度、枕の上に引っくり返ってしまった。
「……ゲヘゲヘ……ゲヘンゲヘン……そ……そんな馬鹿な話が……あるものか……アレが夢なら何もかも……夢だ……」
「静かに……静かに……」
「……ぼ……僕と一緒に助かった者はおりませんか……一緒に幽霊を見た……現実の証人が……」
私は黄色い吸呑《すいのみ》を抱えながらキョロキョロとそこいらを見まわした。この室《へや》には寝台《ベッド》が一つしかないのを知っていながら……。
しかしブーレー博士は私と反比例に、沈着《おちつ》いた態度で鼻眼鏡を外《はず》した。微笑しいしい両手の指を組み合わせた。
「……イヤ……助かったのは貴方お一人なのです。ほかには船具の破片すら見付からなかったのです」
底本:「夢野久作全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年3月24日第1刷発行
底本の親本:「瓶詰地獄」春陽堂
1933(昭和8)年5月15日発行
※底本の「抓《つみ》み出してくれよう」を、「抓《つま》み出してくれよう」に改めました。
入力:柴田卓治
校正:浅原庸子
2004年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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