皆は又ハッとさせられた……ところが間もなく、その水夫長が片手に小さな提燈《ランタン》をブラ下げて出て来たので、ホッとした連中が訳もなくアトからゾロゾロとクッ付いて行った。だから私も何の気なしに先を争って行ったが、アトで止せばよかったと思った。
チャンコロ部屋というのは船尾の最下層に近い部屋で、ズット以前に支那人の奴隷を積んだ寝床の取り崩し残りを、荒板で無造作に囲んだものであった。その真暗な蚕棚《かいこだな》式の寝床の間を、突き当りまで行った処で、ランタンの赤い光りが停止している。それを目標にしてタマラナイ異臭がムンムンと蒸《む》れかえる中を手探りして行くと、そのうちにヤット眼が慣れて来た。
一人の水夫は上半裸体の胴体を、寝床の手摺に結び付けたまま、床《フロア》の方へ横筋違いにブラ下っていたが、左手の関節が脱臼するか折れるかしたらしく、ブランブランになって揺れていた。それから今一人は、これも半裸体のまま床の上に転がり落ちて、蚕棚の下を嘔吐《は》き続けながら、ズット向うの船底《ダンブル》の降り口の所まで旅行していたが、どこかに猛烈に打《ぶ》つかったものと見えて、鼻の横に大きな穴が開いて、そこから這い出した黒い血の塊《かた》まりが、頬から髪毛《かみ》の中に這い上っていた。その惨《むご》たらしい死相《しにがお》を、ユラユラと動くランタンの光越しに覗いていると、何だか嬉しそうに笑っているかのように見えた。
皆はシインとなった。息苦しい程|蒸《む》し暑かった。
「……ウ――ム……ムムム……」
とその時に水夫長が唸り出した。
白いハンカチで何度も何度も禿げ上った額を拭いているうちにランタンの火がブルブルと震え出した。
「……オ……おいらの……せいじゃ……ねえんだぞ……いいか……いいか……」
私は水夫長の声が、いつもと丸で違っているのに気が付いた。響きの大きい胴間《どうま》声が、難破船のように切れ切れにシャガレていて、死んだ水夫の声じゃないか知らんと思われた位であった。
その声を聞くと皆はモウ一度ゾッとさせられたらしい。足を踏み直す音が二三度ゾロゾロとしたと思うと、又シインとなってしまった。
そのうちに誰だかわからない二三人が、ダシヌケに私を押し除《の》けながら板囲いの外へ出ようとした。だから私も押されながら狭い棚の間を食堂の方へ引返した。トタンにたまらない鬼気にゾクゾクと襲われかかったが、これは大暴風《あらし》のアトの空腹と、疲労でヒョロヒョロになっていた神経が感じた幻覚だったかも知れない。もっともこうした状態は私ばかりではなかった。水夫長もおんなじように気が弱っていたものに違いなかったが、しかし場合が場合なので誰一人ソンナ事に気付いてはいないらしかった。
それから一時間と経たないうちに、いい加減に薄められた石炭酸だの、昇汞《しょうこう》だの、石灰水だのがドシドシ運びおろされて、チャンコロ部屋一面にブチ撒《ま》かれた。するとどうした都合か、その猛悪な刺戟性の臭いが、アノ忘れられない屍臭と、嘔吐臭を誘いながら、食堂の中一パイにセリ上って来たので、綱にブラ下りながら受取ったパンと水が咽喉《のど》に通らなくなってしまった。
皆|忌々《いまいま》しそうにペッペッと唾液《つば》を吐きながら、パンを噛《か》じって水を飲んだ。
その中に交《まじ》った黒ん坊の給仕も、生石灰で火傷をした手の甲の繃帯を巻き直しながら、不平そうに涙ぐんでいた。
船長も片手で綱を掴みながら、その黒ん坊が給仕する生《なま》ぬるい水を二三杯、立て続けに飲んだが、ヨッポド胸が悪かったのであろう。そうしてコップの中をジイッと透かして見ているうちに、間もなく低い声で、
「……ボン……」
と叫んだと思うと、飲み残しの水をパッと床の上に投げ棄てながら、皆の顔を見まわして冷笑した。
皆は真青になった。何かしら薄気味悪い、暗い気持に船全体が包まれている事実を、船長とおんなじように感じているらしかった。
そのせいか二人の死骸は、極力念入りに包装された。そうして大揺れの下甲板に粛々と担《かつ》ぎ上げられると、午後の正四時に船長がヒューウと吹き出した口笛を合図にして、厳《おごそ》かな敬礼に見送られつつ水葬された。
その黒長い二つの袋が、船よりもズット大きい波の中に、泡の尾を引いて吸い込まれて行くと間もなく、私達の背後からケタタマシイ爆音が起ったので、皆ビックリして振り向いた。それは、どこから探して来たものか水夫長が、支那製の爆竹に点火して、二人の霊に手向《たむ》けたものであったが、その花火筒のアクドイ色彩を両手にブラ下げて、起重機の蔭から舷側によろめき出た水夫長のうしろ姿が、不思議なほどゲッソリして見えた。
その夕方の夕焼けのスバラシサは、今でもハッキリと眼に残っている。あらん限りの綺麗な絵の具に火を放《つ》けて、大空一面にブチ撒いたようで、どんなパノラマ描《か》きでもアンな画は書けなかったろう。眼が眩《くら》んで息が詰まる位ドエライ、モノスゴイものであった。
私は潮飛沫《しおしぶき》を浴びながら甲板の突端《トップ》に掴まって、揺れ上ったり、揺れ下ったりしいしい暗くなって行く、真青な海の向う側をボンヤリと見惚《みと》れていた。するとその肩をダシヌケに叩いた者が居たのでビックリして振り返ってみると、それは小男の二等運転手であった。
その顔を見た瞬間に……又|暴風《あらし》だな……と直覚した私は、空っぽになったウイスキーの瓶を頭の中で、クルクルと廻転させた。
小男の二等運転手は鈎鼻《かぎばな》をコスリコスリ下手《へた》な日本語で云った。
「水夫長ドコ行キマシタ」
「先刻《さっき》頭が痛いと云って降りて行ったようですが?」
「困リマス、バロメーの水銀無クナリマス」
「……驚いたなあ……また時化《しけ》るんですか」
運転手は返事せずに、階段の方向へ駈け出した。同時に下から不安な顔をさし出した一等運転手と、肩を並べて降りて行った。だから私も何かしら不安な気持に逐《お》われながら、下甲板伝いに食堂へ降りて行ったが忽ち……アッ……と叫んで立ち止まった。
船室の扉《ドア》が半開きになっている蔭から、水夫長の巨大な身体《からだ》がウツムケに投げ出されている。襯衣《シャツ》の上のズボン釣りを片っ方|外《はず》して、右手は扉《ドア》の下の角《すみ》を、左手は真鍮張りの敷居をシッカリと掴みながらビクビクと藻掻《もが》いているようである。ランプが点《つ》いていないせい[#「せい」に傍点]か、顔と手の色が土のように青黒い。
私より先に立っていた二人の運転手が、同時にタジタジとよろめいた。船が揺れたせい[#「せい」に傍点]ではなかった。同時に水夫長がウームと唸った。
私はイキナリ駈け寄って抱き起そうとしたが、まだ水夫長の身体《からだ》に触れないうちに、思いがけない二人の人間が、水夫長の足の処に立っているのを発見したので、ビックリしながら手を引いた。その二人の背後からは、夕映えの窓明りがピカピカとさし込んでいたが、それでも二人の服装が、細かい処まで青白くハッキリと見えたから不思議であった。
それはツイ一時間ばかり前に、二重の麻袋《ドンゴロス》に入れて、松脂《チャン》やタールでコチンコチンに塗り固めて、大きな銑鉄《せんてつ》の錘《おもり》を付けて、確かに海の底へ沈めた筈の二人の水夫に違いなかった。
青い夏服をキチンと着た二人の姿は、消毒された時と一|分《ぶ》一|厘《りん》違ってはいなかった。向って右側に立っている水夫の鼻の横に出来ている疵口《きずぐち》が、白くフヤケた一寸四方ばかりの口を開いている向うから、奥歯の金冠が二三本チラチラと光っていた。その疵口は水夫長が手ずから強いアルコールで拭き浄めてやったものであった。
その水夫は私の顔を見ると、二つの口を歪《ゆが》めてニヤリと笑った。そうして明瞭な英語で、
「……水夫長を連れて行きますよ」
と云った。その声は二人の運転手も一緒に聞いたのだから間違いない。口の横に大|怪我《けが》をしている人間とは思えない、ハッキリした、静かな口調であった。
……轟然一発……。
私は自分の頭が破裂したのかと思った。振り返ってみると、それは一等運転手が、私の背中越しに、二人の水夫を目がけてピストルを発射したのであった。給仕、水夫、コック、船長などがその音を聞き付けたらしい。
「ドウシタドウシタ」「……どうしたんだ……いったい……」
と口々に叫びかけながら走り込んで来た。その中には、私達三人を幽霊じゃないかと疑った慌て者も居たそうであるが、これは考えてみると無理もなかった。本物の幽霊はピストルの烟《けむり》と一緒に消え失せてしまって、アトにはウンウン藻掻《もが》いている水夫長の肉体だけが残っていたのだから、説明の仕様がなくなった三人が、三人とも、思い切った珍妙な顔をしていたのは当然である。
その水夫長の額や手足は、火のように熱くなっていた。取り巻いた連中は皆、チブスに違いないと云いながら処置に困った顔をしていたが、そういううちにも水夫長は真鍮張《しんちゅうば》りの敷居に必死と獅噛《しが》み付いたまま……
「勘弁してくれ勘弁してくれ」
と叫び続けた。
後から這入って来た船長が、そうした水夫長の姿をジッと見下していたが、やがて、超然たる態度で咳払いを一つした。
「……三人が飲んだというアノ支那人《チンク》の酒場が怪しかったんだナ。……俺はソウ思う。……厄病神がドッカの隅に隠れてやがったんだ。……そうして三人に取憑《とりつ》きやがったんだナ。俺はソウ思う……」
とユックリユックリ断言しながら、食堂のマン中に引返した。すると、その左右から二人の運転手が近付いて、私と一緒に見た通りの幽霊の姿を報告し初めたので、皆眼を光らして聞いていたが、しかし船長は苦り切ったまま眼を閉じて、腕を組んで棒立ちに突立っているキリであった。そうして二人の言葉が終っても暫くの間、おなじような状態を続けていたが、やがて青い眼をパッチリと開くと、天井の一角を睨みながら薄笑いをした。
「……フフン……恩を仇《あだ》にしやがるんだな……フン。連れて行くなら行ってみろだ。水夫長は死んでも新嘉坡《シンガポール》まで持って行ってくれるからな。アームストロングの推進器《スクリュウ》と、貴様等の幽霊の力とドッチが強いかだ……フフン……」
二人の運転手が同時に肩をユスリ上げた。申合せたように青白いタメ息を吐《つ》いた。
船長はその場で命令を下して水夫長の身体《からだ》を、下甲板に在る船長室のスグ横の行李《こうり》部屋兼、化粧室に移させた。あとの消毒と水夫長の介抱は私が引受けたが、これは皆から強いられぬ先に申出たものであった。
スッカリ片付いた時は日が暮れていたが、同時に嵐の前兆もイヨイヨはっきりとなっていた。デッキを駈けまわる足音が時々きこえて来る。
小さな丸窓から、厚い硝子《ガラス》越しに時々、音の無い波頭が白く見えるのは、どこかに月が出ているせいであろう。
流石《さすが》に無鉄砲な私も、そうした光景をジッと見ているうちい、云い知れぬ運命の転変をゾッとする程感じさせられたものであった。同時に何とも知れない恐ろしいものが、室《へや》の中に満ち満ちて来るような感じがしたので、私は思わず身ぶるいをしてポケットの五連発を押えた。それから水夫長の焼けるような額に手を当ててみた。
その瞬間に入口の扉《ドア》が、ひとり手に開いて真黒な烈風がドッと吹き込んだ。
私は慌てて扉《ドア》を押えながらシッカリと閉め直したが、その片手間に室内を振り返ってみると……ギョッとした。
腰が抜けるとはあんな状態をいうのであろう。扉《ドア》の把手《ノッブ》を後手《うしろで》に掴んでヤッと身体《からだ》の重量を支えた。
二人の水夫が又来ている。ほの赤いランタンの光りの中に、菜《な》ッ葉色《ぱいろ》の作業服がハッキリと浮き出している。何もかも先刻《さっき》の通りの姿で、しかも一人の水夫の片腕が
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング