クゾクと襲われかかったが、これは大暴風《あらし》のアトの空腹と、疲労でヒョロヒョロになっていた神経が感じた幻覚だったかも知れない。もっともこうした状態は私ばかりではなかった。水夫長もおんなじように気が弱っていたものに違いなかったが、しかし場合が場合なので誰一人ソンナ事に気付いてはいないらしかった。
 それから一時間と経たないうちに、いい加減に薄められた石炭酸だの、昇汞《しょうこう》だの、石灰水だのがドシドシ運びおろされて、チャンコロ部屋一面にブチ撒《ま》かれた。するとどうした都合か、その猛悪な刺戟性の臭いが、アノ忘れられない屍臭と、嘔吐臭を誘いながら、食堂の中一パイにセリ上って来たので、綱にブラ下りながら受取ったパンと水が咽喉《のど》に通らなくなってしまった。
 皆|忌々《いまいま》しそうにペッペッと唾液《つば》を吐きながら、パンを噛《か》じって水を飲んだ。
 その中に交《まじ》った黒ん坊の給仕も、生石灰で火傷をした手の甲の繃帯を巻き直しながら、不平そうに涙ぐんでいた。
 船長も片手で綱を掴みながら、その黒ん坊が給仕する生《なま》ぬるい水を二三杯、立て続けに飲んだが、ヨッポド胸が悪かったのであろう。そうしてコップの中をジイッと透かして見ているうちに、間もなく低い声で、
「……ボン……」
 と叫んだと思うと、飲み残しの水をパッと床の上に投げ棄てながら、皆の顔を見まわして冷笑した。
 皆は真青になった。何かしら薄気味悪い、暗い気持に船全体が包まれている事実を、船長とおんなじように感じているらしかった。
 そのせいか二人の死骸は、極力念入りに包装された。そうして大揺れの下甲板に粛々と担《かつ》ぎ上げられると、午後の正四時に船長がヒューウと吹き出した口笛を合図にして、厳《おごそ》かな敬礼に見送られつつ水葬された。
 その黒長い二つの袋が、船よりもズット大きい波の中に、泡の尾を引いて吸い込まれて行くと間もなく、私達の背後からケタタマシイ爆音が起ったので、皆ビックリして振り向いた。それは、どこから探して来たものか水夫長が、支那製の爆竹に点火して、二人の霊に手向《たむ》けたものであったが、その花火筒のアクドイ色彩を両手にブラ下げて、起重機の蔭から舷側によろめき出た水夫長のうしろ姿が、不思議なほどゲッソリして見えた。

 その夕方の夕焼けのスバラシサは、今でもハッキリと眼に残っている。あらん限りの綺麗な絵の具に火を放《つ》けて、大空一面にブチ撒いたようで、どんなパノラマ描《か》きでもアンな画は書けなかったろう。眼が眩《くら》んで息が詰まる位ドエライ、モノスゴイものであった。
 私は潮飛沫《しおしぶき》を浴びながら甲板の突端《トップ》に掴まって、揺れ上ったり、揺れ下ったりしいしい暗くなって行く、真青な海の向う側をボンヤリと見惚《みと》れていた。するとその肩をダシヌケに叩いた者が居たのでビックリして振り返ってみると、それは小男の二等運転手であった。
 その顔を見た瞬間に……又|暴風《あらし》だな……と直覚した私は、空っぽになったウイスキーの瓶を頭の中で、クルクルと廻転させた。
 小男の二等運転手は鈎鼻《かぎばな》をコスリコスリ下手《へた》な日本語で云った。
「水夫長ドコ行キマシタ」
「先刻《さっき》頭が痛いと云って降りて行ったようですが?」
「困リマス、バロメーの水銀無クナリマス」
「……驚いたなあ……また時化《しけ》るんですか」
 運転手は返事せずに、階段の方向へ駈け出した。同時に下から不安な顔をさし出した一等運転手と、肩を並べて降りて行った。だから私も何かしら不安な気持に逐《お》われながら、下甲板伝いに食堂へ降りて行ったが忽ち……アッ……と叫んで立ち止まった。
 船室の扉《ドア》が半開きになっている蔭から、水夫長の巨大な身体《からだ》がウツムケに投げ出されている。襯衣《シャツ》の上のズボン釣りを片っ方|外《はず》して、右手は扉《ドア》の下の角《すみ》を、左手は真鍮張りの敷居をシッカリと掴みながらビクビクと藻掻《もが》いているようである。ランプが点《つ》いていないせい[#「せい」に傍点]か、顔と手の色が土のように青黒い。
 私より先に立っていた二人の運転手が、同時にタジタジとよろめいた。船が揺れたせい[#「せい」に傍点]ではなかった。同時に水夫長がウームと唸った。
 私はイキナリ駈け寄って抱き起そうとしたが、まだ水夫長の身体《からだ》に触れないうちに、思いがけない二人の人間が、水夫長の足の処に立っているのを発見したので、ビックリしながら手を引いた。その二人の背後からは、夕映えの窓明りがピカピカとさし込んでいたが、それでも二人の服装が、細かい処まで青白くハッキリと見えたから不思議であった。
 それはツイ一時間ばかり前に、二重の麻袋《ドンゴロス》に
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