。もしかすると病人の処置を考えていたのかも知れないが、とにかく薄気味が悪い人間だと思いながらソッと甲板に出た……と……同時に素人ながら、これはと気が付いた。
一時間ばかり前までカラカラに晴れ渡っていた空が、いつの間にか蒸《む》し暑い灰色に掻き曇って来て、油を流したように光る大ウネリが水平線の処まで重なり合っている。ハイカラの一等運転手がその舳《みよし》に突立って、高い鼻を上向けながら、お天気を嗅ぐような恰好をしていたが、私が近づいて行く靴音を聞くと、急に振り返って片手を揚げた。
「……ヤッ……済みませんが……大急ぎで水夫長を呼んで来てくれませんか」
言葉付は叮嚀《ていねい》であったが、顔色はかなり緊張していた。
「……それからですね……今大きなスコールが来かけていますから、そいつが通過するまで君は甲板に出ないで下さいね」
……果して……と思うと、暴風《あらし》に慣れない私は少々ドキンとした。そのまま大急ぎで船室に引返したが、水夫長はモウ別の階段から出て行ったらしく、船室の扉《ドア》が開け放しになっていた。
私は船酔の薬を混ぜたウイスキーを一息に嚥《の》み下しながら、寝台《ベッド》に頭を突込んだ。夕食は無論喰わなかった。
南支那海の三角波というのは、チョウド風呂敷を下から突き上げるような恰好に動くものだそうで、船首に落ちかかる波の頭だけでも大きいのは十|噸《トン》ぐらいの力がある。そんなのにタタキ廻されると、イクラ馬力をかけてもかけても船が進まないどころか、逆戻りしている事さえあるという。世界を股にかけた船員でも、真剣になってその恰好の恐ろしさを説明する位であるが、二昼夜の間角瓶を抱いてヘベレケになっていた私は、トウトウその珍らしい波を見ないでしまった。
舷側のボートを一艘犠牲に供して、船が再び、明るい太陽の下に出ると、腹を減らしていた連中が期せずして食堂に集まった。むろん船はまだ大揺れに揺れていたから皆、素足のままで、室《へや》の中に張り廻した綱に捉まって、青い顔を見合せただけであったが、その時に二等運転手がフト気付いたらしく皆の顔を見まわした。
「チブスの奴等あドウしたろう。チャンコロ部屋に隔離さしておいたんだが、死にやしめえな……マサカ……」
皆は愕然《がくぜん》となった。
すると何を考えたのか水夫長が大急ぎで自分の部屋に飛び込んで行ったので、
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