て来たその嬉しさ……と思うと又、何事もなくその週間を通過して行くその恐ろしさ。
思いは同じ弟も、同じ下宿の闇黒の中に眼を瞭《みは》りながらジット時計のセコンド[#「セコンド」は太字]を数えている気はいが、一所に眼を醒ましている私にアリアリと感じられるようになりました。
こうして予定から一箇月も遅れた昨年の十月の末の火曜日にレミヤ[#「レミヤ」は太字]はやっとの事で、玉のような男の児を生み落したのですが……しかし、どうでしょう……それから約束の二百八十日を逆に数えてみますと……ナント驚くべき事には、その日は私の週間でもなければ弟の領分でもない……ちょうどレミヤ[#「レミヤ」は太字]が教会に行って、二人が下宿に休んでいる、その日曜日に当っているでは御座いませぬか。……私たちが二百八十日という日数を定めましたのは医者の書物に書いてある普通の女の姙娠期間を標準にしたものですが、それがコンナ皮肉な結果になろうとは誰が思い及びましょう。……イクラ神様の思し召しでも、これは又余りに残酷な……イタズラ小僧の思い付きとしか思えない思し召しようでは御座りませぬか。
私たち三人の運命はお蔭で又も完全に行き詰まってしまいました。
けれどもその行き詰まり状態は、以前のような遠慮や妥協の利く行き詰まり状態とは全然程度が違っておりました。
その児は男の子に有り勝ちの母親|肖《に》で、実に可愛らしく丸々と肥っておりましたが、どうしたものか生れ落ちると間もなく、母親以外の誰が抱いても承知しなくなりましたのでレミヤ[#「レミヤ」は太字]はもう有頂天になって可愛がっているのです。私達もそれを見ますと直ぐにも抱き上げて頬擦りしてみたい衝動で一パイになるのですが、まだどっちの子とも決定《きま》らない以上どうする事も出来ません。ウッカリ先に手でも出そうものならその場で決闘が初まりそうな気がするのです。そこで、もうスッカリ破れかぶれになってしまった私達兄弟は、間もなくこの町で一流の弁護士を頼んで、一か八かの勝敗を決定してもらうべく、双方から同時に訴訟を提起する事になりました。
ところがこの裁判の係長を引き受けた人は、この界隈でも名判官の評判を取っているテロル[#「テロル」は太字]、ウイグ[#「ウイグ」は太字]という主席判事で御座いましたが、事件の性質上、裁判の内容を絶対秘密にする旨を関係者一同に宣誓させた上で、双方の主張を聴取る段取りになりますと、私の方の弁護士がタッタ一ツ取っておきの「兄の権利」を主張してマチラ[#「マチラ」は太字]の主張を押え付けようとするのに対して、相手側の弁護士は「双生児の兄と弟を区別する事は出来ない筈である。従来のように後から生れた方を兄と認めるのは要するに迷信的な判別法で、医学上ではドチラが兄か弟か区別出来ない事になっている」という事実を専門家の説明付きで主張して一歩も後へ引きません。……それでは二人の父親の血液を採って、赤ん坊の血液と比較研究して、ドチラかに近い方の血液の持ち主を本落の親と認めてはドウかという事になりましたので、取りあえず私達二人の血を採って調べてみますと、これが又生憎と揃いも揃った同類同型の血液で、赤ん坊の血清に対する反応も隅から隅まで同一なのです。……では指紋でもいいから似通った方を親子と決めようというので双方同意の上で調べてもらいますと、これは又兄弟とも全然型が違っている上に、赤ん坊の指紋は又飛び離れた形になっておりますので、これも問題にならなくなりました。
こうして裁判官も弁護士も、それからこの裁判のために特別に召集されました陪審員たちまでも、ドン底まで行き詰まってしまう一方に、赤ん坊は誰も名前の付けてやり手がないまんまズンズンと大きくなって行きます。そのうちにこの裁判の秘密が、どこから洩れたものかわかりませんが、だんだんと評判になって参りまして、方々の新聞がヨタ交《まじ》りに書き立てるようになりました。すなわちこの裁判が、どうなるかという事は全世界の裁判史上に一つの大きなレコード[#「レコード」は太字]を止《とど》める意味になりますので……しかも、このまま無期延期にするとか、双方の示談にするとかいう事は、絶対に不可能というのですから、新聞が飛び切りの題目として、徳義を構わず書き立てるのは無理もない事と思われます。
(6)[#「(6)」は縦中横]
名裁判長ウイグ[#「ウイグ」は太字]氏は、こうした形勢を眼の前に見ますと、今までの行き詰まりの一切合財を総決算的に引き受けた気持ちになって、モノスゴイ苦心を初めたらしいのです。その証拠には殆んど裁判|毎《ごと》に、その鬚が白くなって行くように見えたのですが、しかし、それと同時にウイグ[#「ウイグ」は太字]氏は、この裁判を自分の名誉にかけても片
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